長編15
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古からの誘い⑧<母乳>

室町時代の優れた陰陽師を遠い祖先に持つサラリーマンの五代夏樹。

その古の陰陽師の式神であり、夏樹を現代の陰陽師として覚醒させたい瑠香。

そしてそんなふたりの前に、夏樹の秘めたる能力に目を付けた美人霊能者、美影咲夜が新たに現れた。

夏樹は咲夜を師と仰ぐことになったのだが・・・

◇◇◇◇

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土曜の午後、夏樹が新宿駅の改札を出ると、咲夜はすでに約束していた柱の横で待っていた。

「遅せーぞ、夏樹。」

小走りに駆け寄った夏樹は、咲夜にいきなり小突かれた。

「いや、まだ約束の時間まで五分あるし・・・」

「時間じゃなくて、私より先に来て待ってるのが当たり前だろ。」

「そんなあ。」

昨日の夜、いきなり電話を掛かってきて呼び出されたのだが、師弟関係となったためだろうか、咲夜の言葉使いが初対面の時とは全く異なっている。

ぶっきらぼうというか、男言葉というか。そしてその態度も結構荒い。

先日までの咲夜が猫を被っていただけで、こちらが素の咲夜なのだろうか。

「さ、行こうぜ。」

咲夜はそう言っていきなり夏樹と腕を組んできた。

「えっ?えっ?咲夜さん・・・」

二の腕に当たる咲夜の柔らかい胸の感触で戸惑う夏樹に対し、咲夜はまるでそれが当たり前のように澄ました顔をして歩き出した。

「甲州街道沿いにあるカフェで、依頼人が待ってるから早く行こう。」

夏樹は今日どこで何をするのか全く聞かされていないのだが、咲夜が“依頼人”と呼んだことからすると、彼女の“祓い屋”の客、つまり何かに取り憑かれた人に会うということになる。

夏樹が彼女の”祓い屋”の仕事に同行するのはこれが初めてだ。

一体どんな”依頼人”なのだろうか。

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◇◇◇◇

約束のカフェの前まで来ると、咲夜が突然立ち止まった。

「ちょっとここへ立て。」

咲夜は夏樹の正面に立つと、右手の人差し指と中指を立て、その二本の指を夏樹の眉間に当てた。

「心を落ち着けて目を閉じろ。」

まさかこんな公衆の面前でキスをされるわけじゃないだろうと思いながらも、咲夜に言われるがままドキドキしながら夏樹が目を閉じると、咲夜は指を当てたまま何やらぶつぶつと呪文のような言葉を呟き始めた。

祓った霊に憑依されないようにする呪文だろうか。

「咲夜さん、何だか眉間が熱いです。」

「黙ってろ。」

そして数分間経ち、咲夜は指を離した。

「何をしたんですか?」

「すぐに分かる。」

夏樹の問いに咲夜はそれだけ答えると店の中に入って行き、夏樹も慌てて後に続いた。

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*********

咲夜が店員に名前を告げると、店員はすぐに一番奥のボックス席へ案内してくれた。

そこに待っていたのは、三十歳前後で渋い色のワンピースを身に纏った髪の長い女性だった。

「堀谷さんですね?美影です。」

咲夜は打って変わった口調で丁寧に挨拶すると、夏樹を助手だと紹介した。

依頼人は堀谷いずみ、調布の病院で看護師をしていると言った。

そして彼女が何かを話し始めようとしたところで咲夜は片手をあげてそれを制し、夏樹を振り返った。

「何か見えるか?」

夏樹は先程から堀谷いずみの胸元をじっと見つめていた。

しかしそれはワンピースの上からでもはっきりと分かるボリュームのある胸に見とれているのではなかった。

「ええ、小さな赤ちゃん・・・生まれてからそれほど経っていない、可愛い赤ん坊が見えますね。堀谷さんの胸にしがみついてます。」

先日まで夏樹は見えてもぼんやりとした黒っぽい影だけだったのだが、今日ははっきりと赤ん坊の姿が見える。

おそらく店に入る前に咲夜が施した何かのおまじないのせいなのだろう。

夏樹は胸の赤ん坊を見つめたまま小さな声で咲夜の問い掛けに答えたのだが、それは堀谷いずみにも聞こえたのだろう、彼女の表情が強張った。

しかし夏樹はその赤ん坊の霊を恐れている様子は全くない。

何かを探るようにそこをじっと見つめ続けている。

「でも、嫌な雰囲気はないですね。苦しがっている様子もないし、口元をもぐもぐと動かして・・・お腹が空いてるのかな。おっぱいを欲しがっているみたい。なんでこの子が堀谷さんに取り憑いているんだろう・・・堀谷さんはお子さんを亡くされたことがあるのですか?」

咲夜が何か言う前に夏樹が彼女に質問すると、堀谷いずみは首を横に振った。

「いいえ、私はまだ独身で、子供を生んだことはありません。」

「じゃあ、これは他の人の子供ってことになりますね。でもそんな感じじゃないんだけどな・・・、じゃあ生まれて間もない赤ちゃんにおっぱいをあげたことってありますか?」

すると堀谷いずみは黙って俯いてしまった。

それを見た夏樹がそれ以上何も言わずに首を傾げながら椅子に背中を預けるのを見て、今度は咲夜が切り出した。

「じゃあ、堀谷さん。今あなたが困っている状況を話して貰えますか?」

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◇◇◇◇

堀谷いずみが夜中に赤ちゃんの泣き声が聞こえることに気がついたのは、一か月ほど前のことだった。

彼女は産婦人科の看護師をしており、仕事では数多くの赤ちゃんの面倒を見ている。

最初は仕事に疲れていたことによる空耳だろうと思っていた。

しかしそれは毎晩のように続き、仕事から来る精神的な病かと思い始めていた。

そんなある夜勤の日だった。

深夜、見回りを終えてナースステーションの奥にある仮眠室で横になりウトウトしていると、ふと自分の乳首に何かが吸い付いているような感覚を覚えた。

半分寝ぼけた頭で繰り返し吸い上げるようなその感覚にうっとりしながらも、自分が仮眠室にいることを思い出し、我に返って体を起こそうとしたが体は全く動かない。

いったい何が起こっているのだろうか。

視線だけはかろうじて動かせるため自分の胸元を見ると、いつの間にか着ていた看護服の胸がはだけられ、剥き出しになった乳房に赤ちゃんが吸い付いていた。

「ひっ!」

ナースステーションに赤ん坊がいるはずはない。

赤ん坊は半透明で透き通っているように見えるが、乳首に吸い付く力ははっきりとしており幻覚ではない。

しかし胸の上に乗っている赤ん坊の重さをまったく感じないのだ。

この赤ちゃんは幽霊に違いないと思ったところで一気に恐怖感が湧きあがり、そのまま気を失ってしまった。

そしてふと気がつくと体は自由に動くようになっており、看護服に乱れはなかった。

時計を見ると仮眠に入ってから二十分も経っていない。

夢だったのかと思ったが、乳首に違和感があった為、念のために看護服の前を開けて確認してみると、赤ちゃんが吸い付いていた側の乳首だけが唾液でべったりと濡れていたのだ。

そしてその日以降、その赤ちゃんの幽霊は病院だけでなく、自宅でも夜中に現れては乳房にしがみついて乳首に吸い付くようになり、赤ちゃんが現れる時は金縛り状態となって、ただひたすら赤ちゃんが消える時を待つしかなく、睡眠不足の日が続いているのだと言った。

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◇◇◇◇

「堀谷さん、先程、五条がお聞きしましたがもう一度お聞きします。生まれて間もない赤ん坊にお乳をあげたことがありますか?」

咲夜の問いに堀谷いずみは再び黙り込んだが、しばらくして顔を上げると意を決したように話し始めた。

「病院ではもちろん禁止されていることなのでご内密に願いたいのですが、以前生まれて間もない赤ちゃんにおっぱいをあげていたことがあります。」

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*********

その赤ちゃんの母親は母乳が出ず、病院で人工ミルクを与えていた。

母親の母乳が出ないこと自体は時折あることなのだが、その時堀谷いずみはお腹に出来た赤ん坊を中絶したばかりだった。

通常母乳が出始めるのは妊娠後期以降なのだが、四か月で中絶した彼女は母乳が出始めていた。

本当は産みたかった赤ん坊だったが、父親である男に産むなと言われ泣く泣く中絶し、乳首に滲んでくる母乳に毎日やるせない気持ちで生活していた。

そしてある夜勤の夜、その人工ミルクを与えている赤ちゃんがもごもごと口を動かしながら手足をばたつかせているのを見た。

(お腹が空いているのかな・・・人工ミルクだけじゃ、免疫もつかないし、良くないわよね。)

魔が差したというのだろうか、そう自分の心に言い訳をしながら、その赤ちゃんに自分の母乳を与えたのだ。

自分の腕の中で懸命におっぱいを吸っている暖かい赤ちゃんと、その吸われる感覚に得も言われぬ幸せな気分となった彼女は、その後も隙を見てはその赤ちゃんに自分の母乳を与え続けた。

しかし、彼女が母乳を与え始めてから五日後のことだった。

その赤ちゃんが突然死んでしまったのだ。

死因は不明だったが、発見したのは彼女だった。

朝、出勤して夜勤の看護師との引継ぎを終えて見回りに出ると、保育器の中でその赤ちゃんがぐったりしているのを見つけたのだった。

自分の母乳と何か関係があるのだろうか。

そんなはずはないと思いながらも良心の呵責に苛まれていたが、検死の結果によると死因は急性心不全ということだった。

母乳とは関係がなかったのだと自分に言い聞かせ、ようやく落ち着きを取り戻してきたところであの赤ちゃんの泣き声が聞こえ始めたのだ。

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◇◇◇◇

「赤ちゃんの幽霊がその子だということはすぐに気がつきました。診断は心不全でしたが、本当は私が母乳を与えていたことが悪かったのではないでしょうか?だから赤ちゃんは私のところに現れるようになったのではないのですか?」

堀谷いずみの問いかけに対し、さすがに医学的な知識のない咲夜にはその問いに関する直接的な答えは持ち合わせていない。

一瞬、答えに詰まった咲夜はちらっと夏樹の方を見た。

その咲夜の視線が、答えを自分に振られたと思った夏樹は堀谷いずみの顔を見つめて話を始めた。

「先ほども言ったように赤ちゃんの霊からは怒りとか恨みの負の念は感じられません。おそらくあなたを母親と勘違いしているだけなのでしょう。気にしない方がいいですよ。」

「でも、赤ちゃんに死なれた母親はみんなこんな経験をしているのでしょうか?私には何か特別な理由があるような気がするのですが。」

夏樹は少しの間黙っていたが、ため息をひとつ吐くと堀谷いずみの顔を見つめた。

「こんなことは言いたくないのですが、その赤ちゃんは望まれて生まれてきたのではない気がします。できちゃった、生まれてこなければいいのに、そんな親の負の感情を赤ちゃんはお腹の中で感じていたのかもしれませんし、母親の母乳がまったく出なかったのはそんなところにも理由があるんじゃないかと思います。

そこへ堀谷さんが優しくお乳を与えてくれ、優しい気持ちで抱きかかえてくれた。おそらく赤ちゃんは幸せだったんじゃないですか?

しかしそもそもそんな負の感情を抱いた親の胎内で成長し、この世に生まれてきた赤ちゃんはどの道生きながらえることが出来ず、自らその心臓を止めてしまった・・・そんなところだと思います。」

黙って俯きながら夏樹の話を聞いていた堀谷いずみの目から涙がこぼれ落ちた。

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*********

「どうしますか?お祓いしますか?」

咲夜が優しく堀谷いずみに尋ねた。

堀谷いずみは黙ってしばらく何かを考えているようだったが、咲夜は黙ってその答えを待った。

そしてしばらく経った後、彼女は咲夜に尋ねた。

「お祓いした後、赤ちゃんの魂はどうなってしまうのですか?行き場をなくして彷徨い続けることになってしまうのでしょうか。」

「いいえ、本来その赤ちゃんはそのまま天に召されるはずだったのが、あなたへの思いにちょっと迷ってしまっただけですから、お祓いすればちゃんと行くべきところに行けるはずです。」

「そうですか。それなら、よろしくお願いします。」

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◇◇◇◇

新宿のカフェを出た三人は、南新宿にあるちょっと古びた『千歳』という名の和風旅館へ入って行った。

「あら美影さん、いらっしゃい。いつものお部屋を準備してありますからどうぞ。」

玄関を入るとすぐに女将と思しき和服姿の女性が出迎えてくれた。

咲夜はここの常連のようであり、入る部屋も決まっているようだ。

「女将さん、いつもお世話さま。後は勝手に部屋へ行きますから大丈夫です。」

咲夜はそう言うと玄関でスリッパに履き替え、さっさと廊下を奥へと進んで行く。

堀谷いずみと夏樹も慌ててそれに続いた。

あまり南新宿周辺には詳しくない夏樹は、このような古風な旅館がここにあることをまったく知らなかった。

古くからここにあるのか、何処からか移設したものなのかはわからないものの、建物の内部を見ると天井の梁や床材などかなり年季の入った建物なのだか、細かいところまで手入れが行き届いており、古さが見事な味になっている。

そして夏樹はここの空気がとても澄んでいるように感じた。

まるで木々に囲まれた山奥にいるようだ。

部屋は長い廊下の一番奥にあった。

襖を開け八畳ほどの部屋へ入ると、咲夜は堀谷いずみに床の間の前へ座るように指示し、夏樹は部屋の隅に座らされた。

「じゃあ、堀谷さん。これから取り憑いている赤ん坊の霊を祓います。この部屋は特別に浄化された上で結界を張ってありますので安心して下さい。」

堀谷いずみは頷くと神妙な顔で座布団の上に座り、咲夜の顔をじっと見ている。

これから何が起こるのか不安なのだろう。

「ごめんなさい。もう一度聞きますが、ここで祓われた赤ちゃんはどうなってしまうのですか?苦しんだりしないのですか?」

「赤ちゃんには何の罪もありません。ただ堀谷さんに対して甘えているだけです。

その意味では甘える相手から引き剝がされる悲しみはあると思いますが、それは本来愛情を与えるべき本当の母親、そして父親の罪です。あなたが気に掛けることではありません。」

堀谷いずみは少し悲しそうな表情を浮かべたが、それを振り払うように顔を上げた。

「判りました。お願いします。」

夏樹にとっても、霊を祓うという行為を直接見るのは初めてだ。

彼女は一体どのような方法であの赤ん坊の霊を祓うのかと、興味津々で咲夜の様子を見守っている。

すると咲夜は予想外の言葉を放った。

「それでは、上半身裸になって胸を出してください。」

「えっ?ここで、ですか?」

驚いた堀谷いずみはちらっと夏樹へ視線を投げた。

胸を露出しろと言われて夏樹の存在が気になるのは当然だし、夏樹も内心驚いた。

「ええ、五条のことは、ここにいないものと無視してください。彼があそこにいるのはそれなりに意味があるのです。」

「判りました。」

堀谷いずみは覚悟を決めたようであり、背中に手を回してワンピースのファスナーを下ろし上半身だけ脱いだ。

看護師である彼女は治療などの為に衣服を脱ぐことに対して、一般の人よりも抵抗が少ないのかもしれない。

彼女はそのままブラジャーも外すと、また元のように正座して次の指示を待った。

「夏樹、そこの押し入れから布団を出して部屋の真ん中へ敷いてくれ。敷布団だけでいい。」

夏樹は素直に立ち上がると言われた通り、堀谷いずみの前に布団を敷いた。

「ありがとう。じゃあ堀谷さん、その布団の上に仰向けに寝て下さい。」

堀谷いずみは言われた通り、布団の上へ横になった。

「じゃあ、始めますね。夏樹、赤ん坊の霊が彼女から離れるところをしっかり確認していろよ。」

夏樹が頷くのを見て咲夜は堀谷いずみの横に正座すると、小さな声で何やら呪文を唱え始めた。

夏樹には聞き憶えのない、仏教の経文とは異なるものだ。

そして咲夜は不思議な形に両手の指を組むとやや声を大きくして呪文を唱え続けた。

十五分もそれが続いただろうか。堀谷いずみはまるで眠ってしまったかのように目を閉じて静かに横になっている。

咲夜は一旦呪文を止めると組んでいた指を解き、両手で彼女の体に直接触れて撫でまわしながらまた呪文を唱え始めた。

咲夜の手は豊かな乳房を中心に、肩からお腹迄上半身を中心にゆっくりと繰り返し動いて行く。

そして堀谷いずみの表情が切なげに歪み始めると、呪文の声が一段と大きくなり、咲夜は手のひらで両方の乳首を転がすように撫で始めた。

赤ん坊が執着している部分を集中的に攻めているのだろう。

「あっ・・・あっ・・・」

堀谷いずみの口から声が漏れ始める。

「あっ・・・熱い、乳首が熱い・・・」

その声を聞いて咲夜は更に手の動きを速め、呪文を唱える声も大きくなっていく。

手の動きに応じてゆさゆさと揺れる乳房の動きが、まるで咲夜が唱える呪文にシンクロしているように見える。

その時夏樹の目には堀谷いずみの乳房の辺りから立ち上る陽炎のようなものが見えていた。

それはゆらゆらと揺らめく赤ん坊の半透明の影のように見える。

その陽炎のような赤ん坊は盛んに乳房の方に手を伸ばすのだが、咲夜の手に阻まれて乳房へは届かない。

(おぎゃー!おぎゃー!)

悲し気な赤ん坊の声が部屋中に響き始めた。

「あっ・・・ああっ!」

堀谷いずみが一段と高い声をあげると、いきなり咲夜が両乳房を力一杯掴んだ。

「あひっ!」「喝!」

堀谷いずみの悲鳴と同時に咲夜が大きな声で喝を入れると、夏樹の目に見えていた赤ん坊の陽炎は、一瞬両手両足をばたつかせると掻き消すように消え、泣き声も聞こえなくなった。

そして乳房を掴まれ一旦背中を大きく反らせた堀谷いずみは、ぐったりと布団の上に横たわって荒い呼吸をしており、手を離した咲夜はまた指を組むと小さな声で呪文を唱え始めた。

静かな部屋の中には咲夜の呪文と堀谷いずみの荒い呼吸音だけが聞こえている。

もう夏樹の目にも赤ん坊の姿は全く見えない。

五分ほど小さな声で呪文を唱えると咲夜は大きく深呼吸をした。

そして体の向きを変えると手元から数珠を取り出し手に掛けた。

そして部屋の中に向かって今度は両手を合わせるとまた呟くように呪文を唱え始めた。

いや、呪文ではない。般若心経だ。

これは成仏する赤ん坊を送るためのお経なのだろう。十分ほどでそれも終わった。

「終わりました。」

咲夜の声に荒い息も収まってきた堀谷いずみは体を起こし、自分の乳房の辺りを確認している。

「夏樹、まだ赤ちゃんは見えるか?」

「いいえ、陽炎のようになって消えていきました。もうここにはいません。」

「そうか。」

咲夜はそう言って夏樹にウィンクすると堀谷いずみの方に向き直り、両肩に手を置いて優しく微笑んだ。

「堀谷さん、赤ん坊はいなくなりました。もう大丈夫ですよ。しばらくの間だるい感じが残るかもしれませんがしばらくすれば取れますから心配しないでください。」

堀谷いずみは気だるそうに起き上がるとしばらくそのまま何かを考えているようだったが、やがて身支度を整えると、ふたりに何度も礼を言って立ち上がった。

「あ、最後に一言。堀谷さん、これであの赤ん坊のことは忘れて下さい。決して仏前やお墓にお参りしようなどと考えてはいけませんよ。」

咲夜のその言葉に堀谷いずみは大きくひとつため息を吐くと、もう一度深々と頭を下げて部屋を出て行った。

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◇◇◇◇

「やはり大したもんだな。」

堀谷いずみと別れた後、夏樹と咲夜は居酒屋に腰を下ろしていた。

夏樹の横にはちゃっかり瑠香も座っている。

「何も見えないんじゃ、一緒にいてもつまらないだろうと思って、少し見えるようにおまじないを掛けたんだが、あれだけで赤ん坊の感情まで感じ取れるようになるとはね。」

カフェへ入る前に咲夜が夏樹に対して眉間に指を当てて唱えた呪文はやはりそう言う事だったのだ。

「えへへ、そうでしょう?夏樹さまは優秀な血を継いでるんですから。」

瑠香がまるで自分が褒められたように自慢げに言うのを聞いて夏樹は苦笑いした。

「でも今日の堀谷さんも優しい人ですね。自分に取り憑いた赤ん坊の、祓った後の心配までするなんて。」

「ああ、でもそれをちゃんと説得した夏樹も大したもんだ。私にはあんな優しい言い方は出来ないよ。これからもよろしくな。」

「でも、咲夜さん、夏樹さまと腕を組んで歩くのは止めて下さいね。夏樹さまが煩悩に走るといけませんから。」

「あら、いいじゃんか。夏樹と腕を組むくらい。今日は堀谷さんのカッコいいおっぱいを見て股間を膨らませてたし、煩悩あっての夏樹だよな。まだ若いんだし当然の反応だよ。」

布団を敷くために夏樹が立ち上がった時に、しっかりチェックしていたようだ。

「もうっ!夏樹さまは何を考えているんですかっ!」

「いや、何って特に・・・女性の綺麗な裸を見て反応しない方が問題だと思うけど。」

「あははは、その通り。しかし夏樹はこんな可愛い式神と一緒にいて、よく発情しないな?」

咲夜は悪戯な笑みを浮かべて夏樹の頬を指で突いた。

「いや、瑠香さんは煩悩を抱えて触ると消えちゃうから。」

「ふ~ん、消えちゃうんだ。」

そう言うと咲夜は瑠香の顔をじっと見つめた。

すると瑠香は何故か困ったような顔をして、咲夜から目を逸らせたのだ。

「ま、とにかく、夏樹の秘めたる実力は良く解ったし、相手の感情を読み取る力は私より優れてるみたいだから、弟子というより相棒としてよろしく頼むよ。」

「はあ。」

「夏樹の童貞ならではのエッチな煩悩も楽しめそうだしな。」

「はあ?」

瑠香のように煩悩を否定されるとムキになって反発するが、咲夜のようにあからさまに肯定されるとそれはそれでどう反応していいのか分からない。

しかも自分が童貞であることを話した覚えもないのだ。

夏樹は困惑しながらも、この不思議な美人霊能者と行動を共にすることが楽しみになっていた。

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このあと死ぬような思いを何度もすることになることなど露知らずに・・・

◇◇◇◇ FIN

Concrete
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