「これ、あげる。」
いまから三十年前、その少女が笑顔で俺に差し出したのは樹脂でできた小さなタヌキの人形。
二本足で立ち、三センチほどの大きさ。
デフォルメされたその愛らしい表情がその女の子にどこか似ていた。
ガチャガチャで取ったものだと言っていたっけ。
「これ、私だと思ってずっと大事にしてね。」
小学校四年生だったから、九歳か十歳の頃だった。
その頃の”ずっと”はどのくらい迄を想定していたのだろう。
しかしその人形は未だに俺の手元にあるのだ。
こんな小さな、安価な玩具であり、差し出した本人はもうとっくに忘れているに違いない。
プレゼントする側は手元に何が残るわけではないのだから忘れるのも早いだろう。
しかし貰った側は、捨てるか失くさない限り、それを目にするたびに思い出す。
でもあの時何でこれを貰ったんだっけ・・・
それよりも・・・
あの子は誰だったっけ。
この人形をちらっと目にするたび、両手で差し出したあの子の笑顔を思い出し、微笑ましい気分になっていた。
しかし、十数年前だったろうか、そう、女房と出会った頃。
ある日ふと、そういえばと、その子の名を思い出そうとしても思い出せなかった。
近所に住んでいた女の子であり、あの子の部屋でこれを貰った。しかしそれ以上のことが思い出せない。
それ以前は間違いなく憶えていた・・・はずだ。
俺は小学校五年生の時に親の仕事の都合で転校し、その子にもそれ以来会っていない。
憶えているはずなのに思い出せない、この人形を見るたびにもやもやとした気分に襲われる。
そしてそのまま十年以上の時が流れた。
女房と結婚し、子供も生まれ、その間に何度この人形を捨てようと思ったか分からない。
しかし“捨てねばならない”というほど強い決意でそう思ったわけではなく、その適度に邪魔にならない大きさから、机の上に置いたまま”まっいいか”と捨てそびれてきたのだ。
記憶にあるあの笑顔がそうさせているのだと言われれば、その通りなのかもしれない。
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「ねえ、パパ、これ頂戴。」
在宅勤務でパソコンに向かい仕事をしていると、学校から帰ってきた今年十歳になる娘が俺の机の横に立ち、ペンスタンドの横に置いてあるタヌキの人形を指差した。
「ああ、いいよ。どうぞ。」
いつ捨ててもいいと思っていた人形だ。
かわいい娘が欲しいと言っているのに断る理由などない。
仕事の最中ということもあり、何の問答もなしに俺はふたつ返事でOKした。
「ありがとう!」
娘は嬉しそうにその人形をつまみ上げると両手で握りしめ、部屋を出て行った。
その姿を見て俺は仕事の手が止まった。
記憶にある三十年前のあの子にそっくりだったのだ。
考えてみれば娘はあの時の女の子と同じ歳であり、おそらくデジャヴのようなものなのだろう。
しかしこれによって俺の記憶に残っていたあの子は完全に娘と置き換わってしまい、どんなにあの小学校の時の記憶を思い出そうとしても、もう娘の笑顔しか思い出せなくなってしまった。
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「ああ、そう言えばあのタヌキの人形はどうした?」
夕食の時にふと思い出して娘に聞いてみた。
「へへへ、あれはね。明後日たかしくんの誕生日にプレゼントするんだ。」
娘はちょっと照れたような笑みを浮かべてそう返事をすると、何故か女房の顔を見て再び笑った。
「ふふっ、ママがね、あの人形を好きな男の子にプレゼントすると絶対に結ばれるからねって教えてくれたの。」
えっ?どういうことだ?
もちろん女房はあの人形を机の上に置いていたことは知っていたし、これは?と聞かれた時は小学生の時に貰ったと答えただけだ。
そう言えば、その時女房からは、誰から?とも、何故?とも聞かれなかった。
ただ、”ふうん、そうなの”と返して来ただけだった。
「あなた、本当に忘れているのね。それ、プレゼントしたのは・・・私よ。」
女房は俺と娘の顔を見比べながらにやっと笑った。
いや、そんなはずはない。
女房とは会社の同僚に呼ばれて参加した合コンで知り合い、その二年後に結婚した。
女房の旧姓は俺の記憶に合致するところはなかった。
あの女の子が女房だったなんて。
いくらなんでも気がつきそうなものだ。
小学生の頃、女房はサッカーに明け暮れていた俺の事をずっと見ていたらしい。
そして学校の友達から教わった恋のおまじないを俺に向かって掛けたそうだ。
「蝋燭と虫ピンを用意して呪文を唱えるの。もうどんな呪文だったか忘れちゃったけどね。」
「蝋燭と虫ピンか・・・黒魔術だな。それで?」
それを五日間繰り返すのだが、その五日目の夜に夢を見た。
濃い紫色のマントを身に纏った見知らぬ女性が現れ、小さな人形を差し出してこれを恋の相手に手渡せと言ったそうだ。
それがあのタヌキの人形だった。
あの人形をガチャガチャで手に入れたということは本当のようだ。
ただ、何故それが夢に出てきたのかは分からないという。
夢の中でそのマントの女性は言った。
「相手の男の子が受け取ってくれれば、間違いなく結ばれるからね。」
「受け取ってくれなければ?」
「その時はそれ相応の報いが待っているわ。」
報い?
しかし女房はあまり深く考えることなく、俺にその人形を渡したのだと言った。
「でもそのあとすぐにパパは引っ越しちゃうし、私も別のところに引っ越して、やっぱり只のおまじないだったんだなって諦めてたの。」
ところが就職して何年か後にあの合コンで偶然再開し、もしかしてあのおまじないは本物だったのかと驚いた。
そして個人的に付き合うようになって俺の部屋に遊びに来た時に、机の上にあの人形が置いてあるのを見て、再会はあのおまじないのお陰だと確信したという。
「でもパパは人形を渡したのが私だって、今日まで全く気付いてなかったのよ。酷くない?」
「言ってくれればいいのに。ショートカットで真っ黒に日焼けしていた小学生の頃の君の記憶しかないんだから、大人になって髪を伸ばして化粧されたら全く分かんないよ。」
そう言って苦笑いしたが、女房と偶然再会した頃に女房の名前が記憶から消えていた。
何か理由があるのだろうか。
そして女房も今日までそのことをまったく口にしなかった。
再会した時にあの時人形をくれた女の子だと気づいてはいけない理由が何かあるのか?
「でもさ、このお人形は絶対的に効果があるって事でしょう?たかしくんにプレゼントしたらバッチリってことよね?」
娘は嬉しそうに人形を握りしめた。
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◇◇◇◇
しかしその二日後、仕事を終えてリビングに戻ると娘は泣き腫らした顔でダイニングテーブルに座っていた。
その目の前には、たかしくんに渡したはずのタヌキの人形が置かれ・・・
首が取れていた。
「どうしたんだ?」
娘の話によると、今日学校でたかしくんにこの人形を渡そうとした。
たかしくんはかなりの人気者のようで、同じクラスのリーダー、いわゆるいじめっ子と呼んでいい女子がいきなり近づいてくると、横からこの人形を娘から取り上げて足で踏みつけたそうだ。
「何を勝手なことしてるのよ!」
そう怒鳴ったその女子に娘は怯んだのだが、そこでたかしくんはいきなりその女子を突き飛ばし、倒れた彼女に向かってペッと唾を吐きかけたのだ。
その子は真っ青になってそのまま帰ってしまったそうだが、娘も壊れてしまった人形を渡すことが出来ずにそのまま持ち帰ってきたと言った。
「人形が壊れちゃったこともそうだけど、たかしくんが人に唾を吐きかけるような人だと思わなかった。」
どちらかと言うと娘はそちらの方にショックを受けたようだが、やはりこの人形のことも気になっていた。
「渡せなかったら”それなりの報い”があるんでしょ?」
娘は不安げな表情で女房の顔を見た。
「だいじょうぶよ。だってあなた自身は何のおまじないもしていないでしょ?」
「うん。」
しかし、俺と女房の事からすれば、この人形に何らかの力が宿っていることは否定できない。
「不安だったら、明日は体の具合が悪くなったことにして学校を休んで家で一日のんびりしていなさい。」
俺はそう言って娘の頭を撫でた。
人形の報いのことだけではなく、たかしくんとの一件もあって学校へ行きたくなかったのかもしれない。
娘は俺の助言に従い学校を休むことにしたのだった。
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◇◇◇◇
翌日も在宅で仕事をしていた。
娘は朝から自分の部屋に籠ってしまっている。
まあ、小学校時代のほろ苦い恋の思い出として時間が解決してくれるだろう。
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午後、家に電話が掛かってきた。
警察からだった。
買い物に出ていた女房が交通事故に遭ったという。
電話で即死だと聞いていたが、娘を連れて病院へと飛んでいった。
女房の遺体はすでに霊安室にあった。
そして女房の姿を見た時、娘を連れてきたことを激しく後悔した。
女房の首は胴体から離れた状態だった。
警察の話によると自転車で買い物に出た女房は、途中で飛び出してきた子供を避けて倒れそうになり、それを避けようとした車がハンドル操作を誤って女房の方へ突っ込んできたらしい。
そして女房は車とガードレールの間に挟まれ、首が飛んだらしい。
「あの人形のせいだ・・・」
俺の横で娘が声を震わせて呟いた。
女房の変わり果てた姿を見た瞬間、俺もそう思った。
あの人形に呪文を封じ込めたのは女房なのだ。
人形の首が捥がれた報いは女房へ向かったということなのか。
女房の遺体の前で立ち竦んでいた俺の横で、目から涙を溢れさせガタガタと震えていた娘が霊安室から飛び出していった。
母親の無残な姿を見ていられなかったのだろう。
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◇◇◇◇
そして夕方、女房の遺体の横に座り放心状態だった俺のところに警察がやってきた。
昼間、女房の事故について報告してくれた警察官とは別の人だった。
そしてその警察官は、悲痛な面持ちでこう告げたのだ。
「お嬢さんが、学校で友人の女の子をカッターで刺したようです。」
間違いなくあの人形を踏み潰した子だろう。
娘は母親の死をその子のせいだと決めつけたのだ。
俺は頭の中が真っ白になり何も考えられなくなっていた。
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◇◇◇◇
…
…
もし俺があの人形を処分していたらどうなっていたんだろう。
<燃えるゴミ>として捨てたりしていたら・・・
自分の娘にあの人形を与えることになったのは、俺が延々と後生大事にあの人形を持っていた為、しびれを切らしたあの魔女が女房に囁いたのかもしれない。
しかし結局、女房は小学生のあの時、黒魔術を頼った時点で、自分の命を代償として差し出してしまったということなのだろう。
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手渡しに失敗した時にだけ”報い”を受けるわけではなかったのだ。
明らかに魔女の説明不足だが、もう三十年も前の話だ。
クーリングオフは効かない。
全ては終わった後なのだ。
そして・・・
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…
今、俺の目の前にある首の取れたタヌキの人形。
俺はこれをどうすべきだと思う?
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
女房の旧姓が記憶から消えていた理由。
すみません、書いた本人がそのロジックを思いつきませんでした。
もしこれを読まれた皆さん、暇だったらちょっと考えて頂いて、ご意見下されば嬉しいです。