室町時代の優れた陰陽師を遠い祖先に持つサラリーマンの五条夏樹。
その古(いにしえ)の陰陽師の式神であり、夏樹を現代の陰陽師として覚醒させたい瑠香。
そして新たに夏樹の秘めたる能力に目を付けた美人霊媒師、美影咲夜が現れた。
本職は銀行員なのだが、不愛想でサディスティックな一面を持つ咲夜。
彼女がなんと合コンに参加すると・・・。
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◇◇◇◇
「え?合コン?」
知り合いに頼まれた地鎮祭の帰り道、咲夜が合コンに行くと聞いて夏樹は驚いた。
普段人付き合いのあまりない、というよりも必要のない人付き合いを好まない咲夜の口から合コンという言葉を聞くとは思わなかったのだ。
しかし先日咲夜が自分にも煩悩はあると言っていたのをふと思い出した。
やはり咲夜もそのようなことに興味がないわけではないのだろうか。
「そうなんだよ。ウチの銀行の頭取のバカ息子の企画でさ、支店内の独身女性全員に声が掛かったってワケ。まあほぼ業務命令だな。でも女はタダで飲み食いできるらしいから損はない。」
「支店の独身女性全員って、年齢制限はないんですか?」
「てめえ、殺すぞ。」
咲夜はそう言って夏樹の首に背後から腕を回し力一杯締め上げた。
「ぐええっっ、ね、年齢制限はないのかなって聞いてみただけじゃないですかっ・・・」
咲夜は今年三十二歳になったのだが、普段はそんな素振りを見せなくともやはり年齢は気になるようだ。
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◇◇◇◇
都内の料亭で行われたその合コンに集まったのは、男女合わせて二十名ほどだった。
半ば強制的に参加させられたとはいえ、若い独身男女が集う飲み会となれば自然に場は盛り上がる。
しかしその中で咲夜だけは一番隅で会話に参加することなく、ひとり黙々と料理を食べ、酒を飲んでいた。
「美影さんだっけ?珍しい苗字だね。どこの出身?」
見た目は美人の咲夜に当然男性陣が入れ替わりに声を掛けてくるのだが、咲夜はほぼ返事することはなく、しばらくすると誰も声を掛けなくなっていた。
それを見兼ねたのか、咲夜の同僚の女性が強引に彼女を話題に巻き込もうとした。
「美影さんて幽霊とかが見える人なんだよね。すっごく不愛想なんだけど、実はちょっとした有名人なのよ。」
「へえ」
男性陣もこれには興味を引かれたのか一斉に咲夜の方を向いたが、咲夜は聞こえていないふりをしているのだろう、全く意に介さぬように黙って箸を動かしている。
「ねえ、これまでにあった幽霊の話を聞かせてよ。」
先程の女性が更に咲夜を会話に巻き込もうとしたが、咲夜は彼女の方をチラっと見ただけでまた料理に視線を戻した。
「他人のプライバシーにかかわる話なんかできない。」
視線を外したまま、咲夜はそう呟いた。
「え~っ、全部仮名でいいからさ。聞かせてよ。」
「やだ。」
彼女は更に食い下がったが、咲夜はそれに応じなかった。
すると白けかかった場を取り繕うように幹事のバカ息子が声を上げた。
「おい真崎、そういえばお前のアパートでおかしなことが起こるって言ってたよな。その話を聞かせてくれよ。」
いきなり話を振られたのは真崎幾多郎(まさききたろう)という男で、茶髪のロン毛に色つきの丸眼鏡を掛けたチャラい雰囲気の男。
サラリーマン風の男性陣と銀行員の女性陣の中でひとり浮いた存在だ。
先程の自己紹介では、下北沢でイタリアンレストランを経営していると言っていた。
「ああ、ちょっと困ってるんだよな。」
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***********
真崎の経営するレストランは業績が芳しくなく、三か月ほど前に家賃の滞納で前のアパートを追い出され、新しいアパートへ移った。
そこは地の利が良い割に家賃が極端に安く、良いところを見つけたと喜んで引っ越したのだが、その引っ越し当日から部屋の中で奇妙な現象に見舞われたのだ。
夜、なんとか片づけを終えて布団に潜り込むと、女のすすり泣くような声が聞こえていた。
何処からか分からないが、部屋中の空間に漂うような音の感じから階下の部屋のようにも聞こえるし、隣のような気もする。
「誰か女を連れ込んで泣かしているのか?まったく、夜中に迷惑だな。」
その日はそのまま眠ってしまったのだが、夜中のすすり泣く声は毎晩のように続いた。
しかし、毎日続くと逆にそれを奇妙だと思わなくなり、配水管の音か何かに違いない、安いアパートだから仕方がないかとそのままにしていた。
そして一か月ほど経ったある夜、真崎が夜中にふと目を覚ますと体が全く動かなかった。
金縛りというやつだろうか、真崎にとって生まれて初めての経験だ。
疲れていると起こりやすいと聞いたことがあり、このまま寝れば治るだろうと再び目を閉じようとした時、部屋の中に見慣れぬ何かがあるのに気がついた。
外の街灯がカーテン越しに入ってきており、部屋の中は薄明るい。
眼球を動かしそちらを見ると、そこには白いカーディガンを着た女が立ってこちらをじっと見ているではないか。
ドキッとして、誰だと問い掛けようとしたが、声も出ない。
しばらくして女は部屋の中をゆっくりと見回し、そして消えていった。
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************
「それからほぼ毎日出てくるんだよ。その女。」
真崎の話に多少興味を引かれたのか、咲夜は彼を横目で見ながらグラスを口に運んでいる。
「真崎、お前その女に何か恨まれるようなことをしたんじゃないのか?」
「してねえよ。こう見えて俺はフェミニストなんだ。」
「じゃあ、その部屋に棲みついてる幽霊なのかしら。事故物件ってやつ?だってその部屋は家賃も異様に安いんでしょ?借りる時、不動産屋に何も言われなかったの?」
実際にこの場に居る人の身に起こっていることだけに、周囲の人達も興味津々でいろいろ質問してくる。
「いや、不動産屋は特に何も言っていなかったな。」
「物件案内の備考欄とかに何も書いてなかったの?」
「そういえば、精神的ナントカありとか書いてあったけど、その漢字が読めなくてさ、不動産屋の姉ちゃんの手前カッコ悪いから聞かなかった。」
「ええっ、それって”精神的瑕疵あり”って書いてあったに違いないわ。事故物件って事よ。」
「ええ?まりこ、その精神的カシって何?」
「瑕疵って不動産用語で欠陥とか不具合って言う意味なんだけど、物が壊れてるみたいな物理的な欠陥や法的な問題に対して使う以外に、精神的に問題がある場合にも使うのよ。
その部屋で人が死んだとかだと、部屋自体に物理的な問題は何もないけど精神的に嫌でしょう?そんな時にこの言葉を使うの。まあ、いわゆる事故物件とほぼ同じ意味ね。」
銀行で不動産関係の窓口を担当しているまりこがその言葉の意味を説明すると、真崎は思い切り顔をしかめた。
「ええ?前に人が死んだだけなら別に構わないけど、実際に幽霊が出てくるんじゃ洒落になんねえよ。でも家賃が安いし、なんとかなんねえのかな。」
「美影さんに頼んでみれば?」
まりこの一言でみんな一斉に咲夜の方を向いた。
「タダじゃやらないわよ。」
咲夜はその視線を気にする様子もなくさらりと言った。
「金取んのかよ。」
「当たり前でしょ。その辺の埃を掃うのと訳が違うのよ。場合によってはこっちが精神的な瑕疵を負うことになったり、命に関わったりすることだってあるんだから。そんなことをボランティアでやるほどお人好しじゃないわ。」
「それで、いくらなんだよ。信用できるんだろうな。」
「もちろん失敗したら一銭も貰わない。金額は祓う相手に寄るけど、簡単に済めば五万、手こずるようなら十万ね。」
「高けえな~。」
「あら、普通の家賃相場との差額を考えれば安いもんでしょ?嫌なら別に構わないわ。」
「ちぇっ!今は金がないから考えとく。」
「期待しないで待ってるわ。」
結局この日の合コンの場で、咲夜が男性陣とまともに言葉を交わしたのはこれだけだった。
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◇◇◇◇
それから数日後。
「お~い、美影!」
仕事を終えて銀行を出た咲夜はいきなり背後から呼び止められた。
振り向くと見覚えのあるチャラい恰好をした男が小走りにこちらへ向かってきていた。
「えっと、誰だっけ、あ、そうだ、精神的瑕疵だ。」
「おいおい、人の名前を勝手に変えないでくれよ。真崎だよ。真崎幾多郎。覚えてくれよな。」
「それで、そのキタローが何でこんなところにいるんだ?」
「いや、この前のお祓いの件、やっぱ頼めるかな。」
「どうした、金の工面がついたのか?」
普段、他人に対しては丁寧な言葉遣いの咲夜が、何故か真崎に対しては夏樹と同じようにぞんざいな口調になっている。
「いや、金はなんとかするからさ。」
真崎の話では、あの後、女の幽霊はベッドのすぐ傍に現れるようになり、真崎のすぐ目の前に顔を寄せて、何かを話しているようなのだが真崎には全く聞こえない。
そしてこれまでは十五分から三十分程度で消えていたのが、その顔を近づけた状態で外が薄明るくなってくるまで延々と消えなくなってしまい、寝不足で苦しんでいるのだそうだ。
「もう耐えられないけど、普通の家賃のところへ引っ越しする金もねえし、美影に何とかして貰おうとここで待っていたんだ。」
「レストランの経営者が貧乏臭いこと言わないで引っ越せよ。」
「経営者がみんな金持ちだと思うなよ。自慢じゃないが俺の店はそれほど流行っていないんだ。」
「そりゃ自慢にならないな。わかった。引き受けるよ。算段ついたら連絡する。」
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◇◇◇◇
「・・・ということで夏樹、どうやら地縛霊のようだから、ちょっとキタローのアパートへ行ってどんな幽霊なのか見てきてくれよ。」
「え~っ?俺が?」
「ああ、夏樹の幽霊の感情を読む能力は私より優れてそうだからな。頼むよ。」
ということで、夏樹は真崎のアパートへと出かけることになった。
真崎のアパートは見た目の築年数も浅そうで、小綺麗な二階建てのアパートだった。
ここに格安の家賃で住めるのであれば、確かにできれば出たくないと思うだろう。
しかし、真崎の部屋の前に立った夏樹は思い切り顔をしかめた。
確かにこの部屋には近寄らない方が良いかも知れない。
そう感じたのだが、このまま帰ったのでは咲夜の依頼が果たせない。
ピンポーン
間髪を入れずにドアが開いた。
「あ、美影咲夜さんから頼まれて部屋の事前調査に来ました。」
ドアから顔を出した真崎に夏樹は慌てて挨拶した。
「ああ、聞いてるよ。入ってくれ。」
真崎の部屋は1LDKの間取りで、こざっぱりと片付き、意外に住みやすそうだ。
この怪しげな”氣”さえ漂ってなければだが。
「そこに座ってくれ。」
真崎が指差したソファに夏樹が腰を下ろすと、真崎は冷蔵庫からコーラを出してコップに注ぐと夏樹の前に置いた。
さすがにレストランを経営しているだけあって、この辺のところは気が回るようだ。
「ところでお兄ちゃんは何者?美影とどういう関係なの?」
やはり気になるのだろう。
「咲夜さんの弟子、って言うのが分かりやすいですね。」
「そっか。で、幾つなの?」
「え?あ、僕は二十八です。」
「お前じゃないよ。美影。」
「あ、三十二って聞いてます。」
「同じ歳くらいかと思ったけど俺よりふたつ年上か~。意外に年食ってんな。まあでも許容範囲だな。」
どうやら真崎は咲夜を恋愛対象として見ているようだ。
咲夜はそれとなくそれを感じていてここへ来なかったのかもしれない。
「えっと、お兄ちゃん、名前は?」
「あ、すみません、まだ名乗ってなかったですね。五条夏樹って言います。」
「へえ、意外にかっこいい名前だな。」
「キタローさんはこの部屋にいて何も感じないんですか?」
「何もって、何を?夏樹は何か感じるのか?」
彼自身は本当に何も感じていないようだ。
夏樹は改めて部屋の中を見回し、少し怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げた。
気配はあるのだが実体が掴めないのだろう。
「ちょっとカーテンを閉めて貰っていいですか?」
真崎が素直にカーテンを閉めると、部屋の中はかなり薄暗くなった。
夏樹はゆっくりと部屋の中を見回していたが、やがてキッチンの傍の一点を見つめ始めた。
「おっ?」
するとそこにぼんやりと煙のように白い影が浮かんできたではないか。
煙のようではあるが、どこからか出てくると言う訳ではなく、空気中に滲んでくるように湧き出てきて徐々に大きくなってゆく。
真崎が声を上げたということは彼にもそれが見えているのだろう。
「昼間も出てくるんだ・・・」
真崎が呟くように言ったが、夏樹は何も反応せずにその白い影を見つけ続けている。
その白い影はやがて人の形になり、はっきりと女性の姿になった。
セミロングの黒髪にやや陰湿そうな顔立ち、白のカーディガンに濃い色のフレアスカートという姿だ。
「寝ている時に出てくるのはこの人ですか?」
夏樹の問いかけに真崎は力強く頷いた。
「ああ、間違いない。金縛りにならずにこの女を見るのは初めてだ。」
女は真崎の事をじっと見つめていたが、ふっと気づいたようにソファに座っている夏樹へ視線を向けた。
夏樹は女から何かを読み取ろうとしているのだろう、じっと女を見つめたまま身動きひとつしない。
「おい、夏樹、どうした?金縛りか?」
「しっ!黙ってて。」
全く動かない夏樹に向かって真崎が声を掛けると、夏樹は女から目線を外すことなくそれを制した。
そのまま十分も睨み合っていただろうか。
不意に女がにやりと笑った。
そして夏樹の方へ移動し、ゆっくりと夏樹の目の前に顔を突き出した。
(うれしい。)
その声は真崎にも聞こえた。
すると女はすっと、まるでテレビを消すように一瞬にして消えてしまった。
そしてそれと同時に夏樹はどさっとソファに倒れ込んでしまったのだ。
「おい、夏樹、大丈夫か?夏樹!」
眠ったように動かなくなった夏樹に真崎が声を掛けてみたがまったく反応がない。
肩を揺すってみても目を覚ます様子がなく、何が起こったのか理解できない真崎は途方に暮れてしまった。
咲夜に連絡を取ろうにも彼女の連絡先がわからない。
呼吸はしており、ひょっとしたら単に眠っているだけなのかもしれないと思った真崎はそのまま様子を見ることにした。
しかしそのまま三十分が経っても夏樹の意識が戻る様子はない。
時折肩を揺すってみるのだが全く反応を示す様子はなく、救急車を呼ぶべきかと思い始めた時、不意に夏樹の胸ポケットでスマホの着信音が鳴った。
電話を掛けてくるということは夏樹の知り合いに違いない、と真崎は夏樹の胸ポケットからスマホを取り出した。
人のスマホだがそんなことは言っていられない。
ラッキーなことに電話は咲夜からだった。
おそらく夏樹に真崎の部屋の様子を確認しようと思ったのだろう。
「美影~」
真崎はいきなり情けない声で電話に出ると、咲夜の大声が跳ね返ってきた。
「キタローか⁉夏樹はどうした!何でお前が夏樹の電話に出るんだ⁉」
真崎が経緯を説明すると咲夜はチッと舌打ちをした。
「まずったな。今すぐそっちへ行く!」
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◇◇◇◇
…
…
ここは真崎のアパートの部屋の前。
夏樹は、ドアの前で女と向き合っていた。
真崎の姿はない。
自分は真崎の部屋の中でこの女と向き合っていたはずだ。
そしてこの女が何を思っているのか意識を感じ取りに行こうとしたところで女が目の前に近づき、その途端、いきなりここへ移動してしまったのだ。
「待っていたわ。さあ早く入って。」
女がドアを開けると夏樹は女に言われるがまま部屋の中に入った。
するとそこは今までいた真崎の部屋とはまったく異なっているではないか。
夏樹はこの部屋が、真崎が引っ越してくる以前にこの女が住んでいた時の状態なのだと無意識に理解していた。
いま、自分はこの女の意識の中の世界にいるのだ。
「待っていたってどういうことなの?」
夏樹が女に問いかけると女はにっこりと笑った。
「やっと私の話を聞いてくれる人に会えたって事よ。何人も入れ替わりにこの部屋へ引っ越してきたけど誰も私の話を聞いてくれない。私を見て顔を引き攣らせたまま黙っているだけ。」
女はソファに座り、夏樹に向かって手招きをした。
夏樹は、この女がこの部屋で泣きながら誰かを待ち続けていたことをその意識から読み取っていた。
そしてこの女は大量の睡眠薬を飲んで自殺したのだ。
待っていた相手が誰なのかはわからない。おそらく恋人だろう。
女の意識の中にそれらのシーンが断片的に存在しているのだが、それが上手くつながらない。
咲夜が、『上手にお祓いをするためには霊の心を読み解くのが一番の早道』と言っていたのを夏樹は思い出していた。
「何で死のうと思ったの?」
「私を裏切ったあいつのところに化けて出てやろうと思ったのよ。」
「裏切られたの?」
「あいつの事を職場でも私生活でもずっと見ていたのにあいつは気付いてくれなかった。いいえ、きっと気付かないふりをしていたのよ。
そこで一緒に死のうと思ってここへ呼び出したの。
でもあいつは来なかった。
だから死んで幽霊になってあいつの傍にずっと一緒にいようと思ったの。ノート一杯にあいつの名前を書いて、それを抱えて死ねばあいつに取り憑けると思った。」
それは裏切られたという表現ではないだろう。
職場のみならず私生活もとなればストーカーじゃねえか、勝手に自分で死んだ奴に取り憑かれたら相手の男の方が可哀そうだ、夏樹はそう思ったが黙って女の話を聞いた。
「それなのに、この部屋から動けないのよ。あいつの所へ行こうと思ってもこの部屋から出られない。ねえ、どうしてなの?どうして動けないの?」
咲夜ならその問いに対する何らかの答えを持っているのかもしれないが、夏樹は答えることが出来ずに黙っていると、女は夏樹の傍へ寄ってきた。
「でももういいの。あなたが来てくれたから。」
女はそう言うと立ったまま話を聞いていた夏樹の手を掴んでソファへと引き寄せて圧し掛かってきた。
その勢いで仰向けに倒れた夏樹の上に女は馬乗りになり、これまでとは全く違う般若の面のような恐ろしい笑い顔で首を絞めてきたのだ。
「ねえ、あなたもここで、この部屋で死んで頂戴。そうすればずっと一緒にいられる。」
夏樹は抵抗を試みたが、異様に重い体重と信じられない腕の力で、夏樹の足掻きは大人に踏みつけられた子犬のようなものだった。
そして女の指が物凄い力で食い込み、夏樹の意識が徐々に遠退いていく。
「咲夜さん、瑠香さん・・・助けて・・・」
…
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◇◇◇◇
「夏樹!大丈夫か⁉」
ノックもせずに真崎の部屋に飛び込んだ咲夜は、ソファの上で横たわる夏樹を見つけると靴も脱がずに傍に駆け寄った。
いきなり苦しみ始めた夏樹の様子に途方に暮れていた真崎は、床に座り込んだまま咲夜に顔を向けると、ほっとしたような表情を浮かべた。
しかしソファの上で苦しそうに呻く夏樹の首にははっきりと赤紫色の手形が残り、その五本の指の部分が徐々に首の肉にめり込んでいくのが解る。
「ちくしょう!夏樹に何しやがる!」
咲夜はそう叫ぶと両掌を重ね、その掌を夏樹の上に向けると大きな声で九字を二回切った。
「喝!」
咲夜の一声と共に首の凹みが一瞬にして元に戻った。しかし手形はそのままであり、夏樹は意識を失ったままだ。
「キタロー、手伝え!夏樹をこの部屋から運び出すぞ!」
咲夜はソファから夏樹を抱き起し、真崎に声を掛けて夏樹の肩を担いだ。
するとそれを阻止するかのように、いきなり目の前のドアがバタンと勢いよく閉まり、机の上に置いてあった鋏が宙に浮いた。
それを見た咲夜は夏樹に肩を貸したまま、左手の指を二本立てその鋏の浮かぶ空間に何か呪文を唱える。
鋏は一瞬咲夜にその刃先を向けて飛んでくる様子を見せたがすぐに床の上に落下した。
「いくぞ!早くしろ!」
咲夜は真崎を急かし、夏樹を部屋から運び出すと、そのままアパートの外へ出てタクシーを呼んだ。
「ちくしょう、憑いて来てやがる。夏樹、ごめんな。やっぱり瑠香ちゃんをつけておくべきだった。」
今回咲夜は夏樹を鍛えるという目的で、彼の式神である瑠香を夏樹の部屋に封じていた。
真崎の部屋の地縛霊がここまで危害を加えてくるほど力を持っているとは思っても見なかったのだ。
タクシーが到着するまでの間、咲夜は路上にしゃがみ込んで夏樹を抱きしめたまま、ぶつぶつと呪文を唱え続け、タクシーが到着すると真崎を残してタクシーへ乗り込んだ。
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◇◇◇◇
タクシーは南新宿にある『千歳』という一軒の旅館の前で止まった。
咲夜がいつも除霊に利用する場所だ。
咲夜がタクシーの中から連絡を入れてあったのだろう、タクシーが到着するとすぐに中から女将が飛び出してきた。
「咲夜さん、奥の部屋に準備が出来ていますからね。」
「ありがとうございます。」
咲夜は夏樹をタクシーから降ろすと一旦玄関前に座らせた。
「取り憑いている霊をここで一旦引き剥がします。それから奥の部屋へ運びますから女将さんも手伝って下さい。」
咲夜は夏樹に向かい、指を組み合わせると夏樹の額に押し当てた。
オン・アビラ・ウンケン・ソワカ・・・
目を閉じ、何度も呪文を唱える。
「喝!」
大きな声と共に夏樹の背中を平手でパンッと叩くと、女将さんと共に夏樹を奥の部屋へと運び込んだ。
奥の部屋には大きな五芒星が描かれた敷物が敷かれている。
咲夜は意識を失ったままの夏樹をその中央に横たえた。
「夏樹を道連れにしようなんて絶対に許さねえ。確実に地獄へ落としてやる。」
咲夜は五芒星の横に座禅を組んで座ると、両手を合わせ、呪文を唱え始めた。
そして三十分ほどして座禅を解き、正座すると女将が用意してくれていた半紙に向かって筆を取った。
梵字だろうか、何が書いてあるのか分からない。
そして最後に朱色の墨汁でその上部中央に大きく✕印を書き、それを部屋の壁に貼った。
貼り終わった咲夜は再び座禅を組み、呪文を唱え始める。
長い。
永遠に終わらないのではないかと思われるほどに延々と咲夜の呪文は続く。
そして八時間が経過した午前二時半。
「喝!」
いきなり大声で咲夜が叫んだ。
すると風もないのに壁に貼られていた半紙が剥がれ、ふわふわと舞い上がった。
「よし!」
咲夜はいきなり立ち上がるとその宙に浮いている半紙を鷲掴みにして、廊下へと走り出た。
そして玄関まで走ると、そこには女将が待っていた。
「咲夜さん、午前二時半ピッタリね。準備は出来ているわよ。」
「ありがとうございます。」
咲夜がそのまま玄関を出ると、そこには白木が三十センチ四方の井桁に組まれ、その中心には蝋燭の火がともされている。
咲夜はその前にしゃがみ、握っていた半紙をその蝋燭の火に翳すと半紙は紫色の炎を上げて燃え始めた。
そしてそれを白木の井桁の中に落とすと咲夜は手を合わせた。
「魔訶般若波羅蜜多・・・」
伊織が口にしているそれは般若心経だった。霊を送り出す時は仏教の経文なのだろうか。
半紙の炎は、井桁の中に積んであった薄い護摩の木片に燃え移り、紫の炎はやがて大きく揺らめくと赤い色に変わり、そして灰となった。
咲夜には死神が彼女を地獄へと連れ去っていく姿が見えていたのだろうか。
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◇◇◇◇
「おーい、美影!」
仕事を終えた咲夜が銀行から出てくると、聞き覚えのある声が呼び止めた。
「美影、ありがとうな。あれから女の幽霊は一切出なくなってぐっすり眠れるようになったよ。」
確かに以前に比べて顔色の良くなった真崎がにこやかに話し掛けてきた。
「ああ、おかげでこっちは随分と酷い目に遭ったがな。」
明るい真崎の表情とは逆に咲夜は渋い表情だ。
しかし取り憑かれた夏樹はその後の霊障もなく元気に過ごしている。
「ああ、申し訳ないと思ってるよ。それでお詫びと言っては何だが、俺の店で思い切りご馳走させてくれないか?もちろん夏樹も一緒に。」
「ほう、イタリアンレストランだったっけ?じゃあご馳走になるか。ワインもつけろよ。」
「ああ、もちろん。」
「それから、夏樹と一緒にもうひとり女の子を連れて行ってもいいか?ツインテールの可愛い子だぞ。」
「ああ、可愛い女の子なら喜んで。」
もちろん瑠香のことだ。
今回の事件で動きを封じられ、夏樹が生死を彷徨うような危険な目に遭ったことで、瑠香はすっかり咲夜に対してへそを曲げてしまっている。
そのご機嫌取りのつもりなのだろう。
しかしこの真崎が経営するレストランも実は格安物件だった。
そこへ咲夜と夏樹、そして瑠香が訪ねて行くことになったのだが・・・
…
◇◇◇◇ FIN いや、つづく?
作者天虚空蔵
思いのほか長くなってしまい、前後編に分けようかと思ったのですが、場面がまるっきり変わるので、⑨&⑩としました。
先月予告した風子ちゃんは⑩に登場します。
キタローはかなり咲夜のことを気に入ったようですが、咲夜にまともに相手をして貰えるとは思えないですね。