長編15
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突然の同乗者

その同乗者に気づいたのは、三か月ほど前に会社から帰宅する時だった。

俺の務める会社は神奈川県の郊外にあり、社員の大半が車で通勤している。

俺も入社してからずっと車通勤であり、結婚して家を建ててからは片道一時間半ほどの往復を繰り返している。

通勤用の車は2ドアの小型オフロード車で、燃費は悪いが非常に気に入っている。

自宅もかなり郊外で便の悪い所にあり、女房も自分専用の車を持っているため、この車はほぼ俺専用なのだ。

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◇◇◇◇

その日は取引先とのトラブルがあって、オフィスを出たのは夜九時を過ぎていた。

従業員用の駐車場へ行くと、もう大半の従業員は帰宅しており、ぽつんと俺の車が寂しそうに主が来るのを待っていた。

やり残した仕事のことを考えながら、疲れた体でとぼとぼと車に近づき、ポケットからキーを取り出す。

「ん?」

違和感、と言えばいいのだろうか。

自分の車にいつもと違う何かを感じた。

見たところ、何も変わったところはなく、念のため車の周囲や下回りも確認したが、何も問題はなさそうだ。

ドアを開けて室内を見回しても特におかしなところはない。

仕事のトラブルでかなり精神的に疲れているからに違いない。

気を取り直して車に乗り込み、エンジンを掛けるといつものように駐車場を出た。

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◇◇◇◇

疲れからか幾分ぼんやりしながらハンドルを握っていると、ふと誰かに見られているような感覚に襲われた。

家に帰るまでに、相模原の市街地を抜けるのだが、今はその手前であり、ヘッドライトで見える範囲の車道にひと通りはない。

何だろう、そう思いながらも、あまり脇見運転は出来ない。

訝しく思いながらも視線を正面に戻した時に気がついた。

ルームミラーだ。

暗い後席に誰かが座っている。

そして通り過ぎる道路脇の街路灯に照らされる度に、白い顔がルームミラーに映し出されるのだ。

その顔は女性であり、丸顔で無表情、切り揃えた前髪が眉の下まであるが、ミラー越しなのでその程度しか判らない。

しかしミラー越しに俺を見ているのがはっきりと分かる。

この視線を感じたのだ。

俺は慌てて路肩に車を停め、後席を振り返った。

よく聞くような怖い話では、後ろを振り返ると誰もいなかったというオチがある。

しかし、残念ながら女はそこにいた。

会社の駐車場を出る時には間違いなく誰も乗っていなかった。

途中、何度か赤信号で停車したが、俺の車は2ドアであり、そこで後席へ乗り込んでくるのは不可能だ。

やはりこの世の存在ではないということか。

これでこの女が血まみれだとか、瞳のない白い目で迫ってくるようなことであれば、即座に車から逃げ出しただろう。

しかしこの女の見た目はあまりに普通なのだ。

長い髪にスーツ姿、歳は二十代後半くらいだろうか、比較的整った顔立ちをしており、顔色はかなり色白だと思うくらいでそれほど強い違和感はないが、しかし全く知らない女だ。

「あの、どなたですか?」

話し掛けてみたが、返事は返ってこない。

ただ無表情のままじっと俺を見ているだけ。

「君は誰?なぜ俺の車に乗っているの?」

もう一度聞いてみたが、やはり黙ったままだ。

しかしこのまま家に帰るわけにはいかない。

いざとなったら引き摺り降ろすしかないと思い、俺は一旦車を降りると助手席へと回った。

そしてドアを開けて助手席のシートを前に倒すともう一度女に声を掛けた。

「さあ、俺はもう家に帰るんだから、さっさと降りてくれないか。」

物の怪の類ならいきなり襲い掛かってくるかもしれないと、半身に構えながら声を掛けたのだが、女は変わらず俺を見つめるだけで動こうとはしない。

こうなったら実力行使だ、俺は女の腕を掴もうと手を伸ばした。

「え?」

俺の手は女を素通りしてしまった。

そうかも知れないと思ってはいたが、やはり現実となると驚いてしまう。

半分透き通っているならまだしも、はっきりと目に見えているものに触れることが出来ないというのは異様な感覚だ。

女は腕を掴もうとする俺の手を目で追っていたが、俺の手が素通りするのを見て悲しそうな表情を浮かべた。

ずっと無表情だったが、まったく感情がないわけではなさそうだ。

しかし女は降りる様子を見せず、強制的に降ろそうにも触れることが出来ない。

俺は諦めて運転席へ戻った。

このまま家に帰って大丈夫だろうか。

会社の駐車場からずっと気配があったということは、ここら辺の地縛霊と言う訳ではないということだ。

とは言え、ひとりで仕事をしていたオフィスでは何事もなかった。

つまり俺自身に取り憑いている訳ではなく、この車に取り憑いたと考えるのが妥当なような気がする。

それならば家の中へは入ってこないかもしれない。

とにかくこのままでは埒が明かない。俺は腹を括って家に帰ることにした。

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◇◇◇◇

自宅のカーポートに車を停め、運転席から降りる。

女は後席に座ったままだ。

しばらく様子を見ていたが、後席に座ったまま動く様子はない。

俺はそのまま家の中へと入った。

風呂に入り、女房が用意してくれた晩飯を食べ、ゆっくりテレビを見る。

全ていつも通りであり、女のことが気になりながらも、仕事の疲れからベッドに入るとすぐに眠ってしまった。

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*********

夢を見た。

そこはいつも通勤途中に通り過ぎる相模原市内の交差点。

しかし何故か俺は歩道に立っている。夕方であり、周辺のひと通りは多い。

キーッ!

いきなり急ブレーキの音が聞こえた。

そちらを振り向くとすぐ目の前の横断歩道上にトラックが停車している。

そしてトラックのすぐ前に女性が倒れていた。

おそらく右折するトラックが横断歩道上の女性を撥ねたのだ。

周囲から悲鳴と怒号があがった。

車道に横たわる女性の周りにはみるみる血だまりが広がり、上半身をのけ反る様にして虚ろな目で何故かこちらを見ている。

なんとそれは、あの後席に座っていた女ではないか。

凄惨な光景だが俺は目を逸らすことが出来ず、女はひくひくと痙攣を繰り返していたが、やがて目を見開いたまま動かなくなった。

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**********

何故か突然、場面が夜へと変わった。全く同じ場所に立ったままだ。

道路を照らす街灯、行き交う車のヘッドライト、周辺の商店の灯り、そして女が轢かれた辺りは路面に多少の痕跡が残っているだけ。

まるで何事もなかったかのように人や車が行き交っている。

目の前の歩行者用信号が青に変わった。

当然、横切る車は赤信号で停車するのだが、俺は渡らない。

ふと横断歩道の手前で停車した車を見て驚いた。

俺の車だ。

運転席に目をやると、そこには疲れた顔をした俺が座っているではないか。

立ち位置は違うが、この場面は記憶にある。

確かに昨晩、会社の帰りに俺はこの交差点で信号待ちをした。

おそらく車の下には、ふき取り切れていない血だまりの跡があるはずだ。

でも、その時の俺はそんなことなど知らない。

するとそこに驚くことが起こった。

俺の車の陰からあの女が出てきたのだ。

改めて思い起こせば、俺が停車しているのはあの女が倒れていた場所だ。

その体はうっすらと透き通っているようであり、若干光っているようにも見える。

俺の車の中にいる彼女はもっとはっきりした姿だったが。

もちろん車の中の俺は、その姿に全く気付いていない。

そして女は車の横に立つと、すっと車に吸い込まれたかのように消えたのだ。

―そういうことなのか?―

交差点で信号待ちをしている時にあの女を拾ってしまったということだろうか。

それは、“たまたま”なのか?

事故が起こってからあの位置に信号待ちで停車した車は、五台や十台ではないだろう。

なぜ俺の車なんだ・・・

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◇◇◇◇

翌朝、車に彼女の姿はなかった。

あれは昨夜だけのことだったのか、単に昼間は出ないのか。

前者だとありがたいのだが。

俺は本当に夢で見たような事故があったのか、ネットで調べてみた。

あのような死亡事故だ。事実ならニュースになっているだろう。

それはすぐに見つかった。

被害者は津島妙子、二十五歳、相模原市内在住の派遣社員。

まったく知らない。

更にニュースを検索すると被害者の顔写真が掲載されているサイトがあった。

彼女に間違いないが、やはりその顔に見覚えはない。

何故俺だったのか・・・

取り憑くのであれば、普通は彼女を轢いたトラックの運転手だろう。

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◇◇◇◇

俺の疑問をよそに、その日から会社の帰り道、必ず後席に彼女は座っている。

しかし相変わらず、ただ黙ってミラー越しに俺の事を見つめているだけなのだ。

最初の頃はもちろん恐怖を感じていたが、特に酷い悪寒を感じることもなく、相手は何もしてこないようだと思うとそれも薄らいでくる。

「君はなぜ俺の車に乗っているの?」

「君は俺の事を知っているの?」

「君は津島妙子さんだよね?」

無表情のまま俺の問いに何も答えない彼女が、自分の名前を言われた時にその表情を微かに動かした。

俺の声が聞こえてはいるようだ。

そしてそれから何となく彼女に話しかけることが多くなった。

元来、小心者の俺は誰かと一緒にいる時の沈黙が苦手なのだ。

ただ彼女のことは何も知らない為、話すのは俺自身のことやごく一般的な世間話であり、ほぼ独り言のようなものだ。

それでも若い女性が相手だと思うと、帰り道の退屈しのぎにはなっていた。

「なあ、ミラーをチラチラ見ながら運転するのは危ないから、できれば助手席へ座ってくれないかな。」

ふと思いついてそう言ったのだが、頻繫にミラーに視線を向けながらの運転は確かに危ないとは感じていた。

助手席に移ったから安全と言う訳ではないが、話題に事欠いて言うだけ言ってみただけだった。

するとミラーの中で彼女の表情が少し動いたのだ。

後から考えれば、目で頷いた、ということだったのだろう。

翌日仕事を終えて駐車場へ行くと彼女は助手席にいた。

幽霊は死亡した時の姿で現れるという話をよく聞く。

刃物で自殺したり、事故に遭ったりした幽霊はその血まみれの姿で現れるらしいのだが、助手席に座った彼女はそんなことはない。

タイトスカートのスーツに特に汚れなども見受けられないし、特に怪我をしている様子もないのだ。

もしかすると、自分の死の悲惨さを伝えたい時はそんな姿で現れ、何か別の目的で現れる時は自然な姿に戻るのかもしれない。

しかし無表情は変わらないものの隣に座ってくれたことで、彼女との距離が少し縮まったような気がした。

これで、少しでも話をしてくれれば嬉しいのだが。

どうせ触れることのできない彼女に対して下心など無意味であり、多少のコミュニケーションが取れれば充分なのに。

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◇◇◇◇

それから一週間程経ったある日のことだ。

女房が、朝の出勤時に駅まで車で送ってくれと言ってきた。

友人と少し離れたアウトレットモールへ出かけるのだという。

津島妙子の幽霊が朝の通勤時に現れたことはないのだから、女房を乗せても特に問題はないだろう。

自宅から駅までは十分も掛からない。

「今日は晩飯までには帰ってくるんだろう?」

自宅を出て駅に向かう途中、運転しながら女房に尋ねた。

「・・・」

返事がない。どうしたんだろう、何か怒らせるようなことをしたか?

横目で女房の様子をちらっと見た。

何だか様子がおかしい。

どこか虚ろな表情で俺の事を見ている。

「おい、気分でも悪いのか?」

相変わらず返事をせず、ぼっと俺の事を見ているだけだ。

俺は慌てて傍にあったコンビニエンスストアの駐車場に車を停めた。

「大丈夫か?しっかりしろ!」

肩を掴んで揺すってみたが、その表情は変わらない。

しかし、無表情ともいえるその表情は・・・

「お前、もしかして津島妙子か?」

その瞬間、無表情だった女房がにたっと笑ったのだ。

間違いない。

津島妙子が女房に憑依したのだ。

「ふふっ、この人がいきなり私の上に座ってくるんだもの。そしたら何が何だか知らないけどこの人の体に入っちゃったみたい。」

女房の声ではない。これが津島妙子の声なのだろうか。

どうやら目に見えなかっただけで津島妙子は昼間も助手席に座っていたようだ。

これまで無口で無表情だった彼女は、女房に憑依することで会話が出来るようになったということなのか。

「ねえ、この人、あなたの奥さん?」

「そうだ。女房はどうした?」

「解らないわ。私自身、どうしてこうなったのか解らないんだもん。」

それはそうだろう。普通の人間には理解できない出来事だ。

とにかくこのまま女房を駅へ送って行くわけにはいかない。

俺は会社に電話を掛けて急に具合が悪くなったと休みを取り、自宅へ引き返した。

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◇◇◇◇

「とにかく、いったい何が起こっているのか、君の知る限り教えてくれ。」

自宅へ戻るとリビングに座って女房に取り憑いた津島妙子に尋ねると、彼女は素直に話してくれた。

あの事故のあった日、津島妙子は社用で銀行へと出かけていた。

そして用事を済ませて会社へ戻る途中、横断歩道でトラックに轢かれたのだ。

「その時、歩きスマホしていたから何も解らなかったんだけど、突然急ブレーキの音が聞こえた後に凄い衝撃があって、もの凄い痛みで気が遠くなったの。」

そして気がつけば、事故に遭った横断歩道の端に立っていて、自分が救急車で運ばれて行くのを見ていた。

しかし誰も自分の存在に気付いてくれない。

傍にいる警察官に話しかけようとしても、何故か話すことが出来ない。

その場から動くことも出来ず、事故現場の後処理の様子、そしてその後は、何事もなかったかのように行き交う人や車を見ていた。

そして夜になり、ふと赤信号で目の前に停車した車が目に留まった。

ちょっと疲れた顔をしたサラリーマン風の男が運転している。

何故か、突然その車に乗りたいと思った。

その男性の優しそうな雰囲気から乗せてくれると思ったのだろうか。そして乗れば家に帰れると思ったのかもしれない。

乗りたい、乗せて!

そう思った途端、動かなかった自分の体がすっと車の方へ動き、気がつくと後席に座っていたのだ。

「何で、俺だったんだ?」

「だから理由なんてないの。何となく…なの。波長が合ったのかな。」

何だ、その波長って。俺はため息を吐いて頭を抱えた。

「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて思っても見なかったの。」

「いや、こんなことになるなんて誰にも解らないよ。でも、どうすれば君はその体から離れて女房が元に戻るんだ?」

もちろん新米幽霊の津島妙子がその答えを知っているわけがない。

女房の姿をした津島妙子は悲しそうに黙って俯いた。

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◇◇◇◇

翌朝になっても津島妙子は女房の体から離れる様子はなく、やむなく憑依した彼女との奇妙な生活が始まった。

見た目は長年連れ添った女房なのだが、声や話し方、会話の内容が全く異なる。

幸い女房は専業主婦で子供もいない為、周りとの付き合いを最小限にして何とか誤魔化すしかない。

そうしながら、神社でお祓いをして貰ったり、頭から塩を掛けてみたり、いろいろ試してみた。

神社で譲り受けた大量のお神酒を入れた風呂にしばらく浸からせても効果はなく、へべれけに酔っぱらった裸の女房(津島妙子)を風呂から担ぎ出しながら、思わず笑ってしまった。

憑依されているとはいえ、生活に別段不自由はないのだ。

女房(津島妙子)は、気を遣ってか、料理、洗濯、掃除など家事はすべてきちんとやってくれる。

ただ、寝室だけは分けた。

そもそも倦怠期と言っては何だが、女房との夜の営みもあまりなくなっていたこともあって、それほど抵抗はなかった。

逆に彼女の方が気を遣って、夫婦なら当然なのだからと一緒に寝ることを許容するような言い回しをしてきたりもしたが、やはり別の部屋で寝ることにした。

ひょっとすると独身のまま死んでしまった彼女は、いろいろな意味で夫婦生活というものに憧れというか、興味があったのだろうか。

もうそれは彼女にとって叶わないことなのだから、尚更なのかもしれない。

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◇◇◇◇

そんな生活が一か月を超えてくる頃、俺はあることを思いついた。

「ちょっと出かけよう。」

女房(津島妙子)を助手席に乗せて家を出ると、相模原市内の住宅地へと向かった。

「ここは・・・私の家。」

そう津島妙子の自宅だ。

インターフォン越しに会社の同僚だと嘘をつき、アポなしで来たことを謝った上で、線香をあげさせて欲しいと頼んだ。

対応に出てきたのは、津島妙子の母親と思われる女性だった。

「お母さん・・・」

思わず口から出てしまったに違いない。

津島妙子の母親は、突然聞こえた自分の娘の声に、驚いた表情できょろきょろと周りを見回している。

しかし当然気のせいだと思ったのだろう、すぐに笑顔になり、まだ骨壺の置かれている仏間へと案内してくれた。

自分の遺影、そして骨壺を前にして女房(津島妙子)は顔を引き攣らせている。

そして俺が先に線香をあげ、手を合わせたところで、とうとう泣き出してしまったのだ。

母親は仲の良かった知り合いだと思ったのだろう、黙ってその様子を見ていた。

俺は線香をあげ終えると膝を回して母親の方へと向き直った。

「お母さん、実は聞いて欲しいことがあるんです。」

「何でしょうか?」

「信じられないと思いますが、妙子さんの魂はここにいる僕の女房に乗り移っているんです。」

母親はいきなり何を言われたのか理解できず、キョトンとした表情で俺の事を見ている。

「お母さん、本当なの。私、妙子なの。」

いきなり娘の声でそう言われ、母親はしばらく目を見開いて固まっていたが、急に険しい表情になった。

「妙子はもう死んでしまったんです。おかしなことを言うならお帰り下さい。」

母親は俺達が自分を騙そうとしていると思ったのだろう、厳しい口調でそう言った。

「お母さん・・・」

すると女房(津島妙子)は、あの事故のあった日の朝、家を出る時の母親とのやり取りの話を始めた。

飲み会でお弁当はいらないから、作ってしまったお弁当はお父さんにあげて、という何気ない会話だった。

そして続けて妙子自身の事、母親の事など、津島妙子でなければ知り得ない話をいくつか並べた。

「本当に、本当に妙子なの?」

信じて良いのか、どう反応すればいいのか、母親は混乱しているようだ。

そこで俺は、津島妙子が女房に憑依するまでの経緯を話した。

「それでお願いなのですが、僕と女房を妙子さんの四十九日の法要に参列させて貰えませんか?」

四十九日は、納骨の日であるとともに、故人が現世からあの世へと旅立つ日とされる。

この日が、津島妙子の魂を女房から引き離す最後のチャンスと踏んだのだ。

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◇◇◇◇

そして法要の日が来た。

女房は、この日までの五日間、母親の強い希望で津島妙子の実家に滞在していた。

何の前触れもなく命を奪われたのだ、最後に家族でいろいろと積もる話をしていたのだろう。

女房の喪服を持って迎えに行くと、津島妙子の母親が父親にたしなめられているところだった。

どうやら、女房が法要に参加しなければ、津島妙子は向こうの世界へは行けずに憑依したままこの世界に留まれると言い出したようだ。

突然奪われた娘が、姿は変わっても帰ってきたのだ。

わからなくはない。

しかし俺は女房を返して貰わなければならないのだ。

当の女房(津島妙子)もどこか不安げな表情を浮かべている。

あの世がどのようなところなのか不安がっているのかと思ったが、それは違っていた。

自分が向こうの世界へ行けず、女房の体に留まり続けることになると、俺から女房を奪ったままになり、見方を変えれば自分は女房を殺してしまったのと同じなのではないかと考えていたのだ。

「その時はその時だ。君自身は無事向こうの世界へ行けるよう手を合わせて祈る事しかできないし、それは俺も同じだ。」

***********

結果、津島妙子は女房から離れ向こうの世界へと旅立って行った。

お坊さんの読経の途中で女房は突然倒れ、意識を取り戻した時には元の女房に戻っていた。

そして、驚くことに女房は津島妙子に体を乗っ取られていた間の事を全て憶えていた。

女房の魂がいなくなってしまったわけではなかったのだ。

「私の体に突然乗ってきた同乗者に運転席を乗っ取られたって言えばいいかな。でも自分は助手席で乗っ取った人が何をしていたか、どんな会話をしていたか、ずっと見て聞いていたわ。」

具体的にはよく解らないが、そういうことらしい。

「でも、あなたが私と寝室を分けた時は、ちょっと複雑な気分だったわね。」

複雑な気分?

どういう意味なのだろうか。

まあ、深堀りして聞くのはやめておこう。

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とにかく元通り、これまでの女房に戻ってくれただけで充分だ。

俺と女房は、納骨を済ませた津島妙子の墓に手を合わせ、自宅へと戻った。

◇◇◇◇ FIN

Concrete
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