1
夕方、会社からの帰り、私は偶然見てしまった。彼氏のヒカルがあの女と一緒にファミレスに入る所を。反射的に2人の後を追い、店内へ入った。
彼らは私に気づきあっという顔をした。どういうことよと詰め寄ると彼はこう言った。
「真奈美、俺と別れてくれ」
は?!
私はカッときた。ヒカルと口喧嘩が始まり女も加勢したもんだから興奮のあまり手を出してしまった。そこまでは覚えている、だがそこから先は曖昧だ。頭に血が上って我を忘れてしまったようだ。どんな決着がついたのかさえ良く覚えていない。間違いなく破滅的な事をしてしまったと思う。
その後ファミレスを飛び出して、何処でどうしていたか記憶が飛んでいる。多分、町中をウロウロと彷徨い歩いていたんだろう、でなければこんな時間になどなってはいない。
2
静かな夜の帳が下りている。スマホを見ると夜中の午前1時40分、やれやれ、我ながら呆れてしまうわ。
―は〜あ…よりにもよって………
側に階段があったのでスカートが皺にならないように腰掛けた。はあとため息をつき膝を立て頬杖をついた。
―何でこんな事になっちゃったんだろう。
湿り気を帯びた風が肌を舐めていく。少し肌寒かった。バックからいちご柄のハンカチを出し、鼻をかんだ。
―終わったんだ、ヒカルとは…
私は失恋を受け入れた。
―もう何もかも信じられない、あんな女の何処がいいの!
頭に爪を立てた
―いっそ…
爪が食い込んでいく
―いっその事…
どのくらいそうしていたのか分からない、涙が乾いていた。指の力を抜き、ゆっくりと顔を上げた。
「ふー」
―ここは何処かしら?
首を巡らすと頭上にコンクリートの建造物があった。とりあえず何処にいるのか知りたかった。スマホで調べると県境にある国道上の橋のそのたもとにいることが分かった。この階段を登れば上に出るんだろう、見上げながら思った。
階段を上がり始めた。こんなに歩き回るとは思わなかったから、ローファーパンプスで良かった。考えてみればこれを1日中履いていたわけね。
誰とも出会わない、まぁ、こんな時間じゃ無理もない…。ある看板が目に入った。
『命を大切に 心の健康相談室』
「………」
3
「はあ、はあ」
息が切れた。やっと橋の上に出た。
「はあ、はあ…」
巨大建造物には薄い霧がかかっていた。何10本という外灯はすべてボヤッと白く光り、奥に行くほど白色に霞んでいた。反対車線も同じように霧がかかり、橋全体を覆っているよう。
『ドボーン』という何かが飛び込んだような水音がした
―何?
耳を澄ましても何も聞こえてこない。
―気の所為か?
こんな時間に橋を渡る人などほとんどいないんだろう、車も不気味なほど通らない。私1人きりだ。とりあえず真ん中まで行こうと足を運んだ。左に顔を向ける。欄干の向こうは漆黒の世界が広がっていた。手すりは胸までしかなく乗り越えようと思えば簡単だ。身を乗り出すように下を見た。
―真っ黒……。
墨を流したように黒く、川面まで何10メートルあるのか検討もつかない。ひょっとすると4,50メートル? 吸い込まれそうだ。たぷ、たぷ、と橋台に当たる波音が微かに聞こえてくる。催眠術にかかったように目が離せなくなった。
―ヒカル……さよなら。
3
「んっしょ」
両腕で欄干の上へ身体を持ち上げた。前へ倒すと当然、両足も上がりヤジロベエのようにバランスを取る。更に、グイッと身を乗り出し上半身がすっかり外に出た。水の匂いがした。黒一面の川面にヒカルと女の顔が浮かんだ。
―ヒカル……
目をつぶった。このまま頭を下げて足を上げれば……
―さよなら。
無意識に身体を振り、数を数えた。
さん、にぃ、いち。もう一度、さん、にい、いち、せーの……
その時ドボーンという水音が近くでした。
―?! また? 何? 何の音?
着地して辺りを伺った。
あ
数メートル先に川を見ている女の人がいる。え?人いたの? でも何か変だ、何がどうとは言えないけど、薄っぺらいというか、映像のようというか……。様子も可怪しい……。
―いったい?
一瞬の出来事だった、その人は欄干を乗り越え身を投げた。
「あ!」
ドボーンという水音が耳に届いた。私はすぐに下を見たけど暗すぎて何も見えない。
―ど、どうしよう……。
「?」
ンと気配を感じ、首を巡らせた。ギョッとした。今、身を投げた人が同じところにいるじゃない!
嘘でしょ?! 呆然と見つめるうち、繰り返される動画のように彼女は再び身を投げた。
ドボーン
そんなバカな。
あ?!
瞬き一つするうちに女はそこに戻っていた。そして寸分たがわぬ動作でまた飛び込む……。
ドボーン
ふと思い出したことがある、自殺をした者は直前の行動を永遠に繰り返すという……。ゴクリと固唾を呑んだ。
ドボーン
ゾクリと背筋が震えた。じゃあ、今、私が見ているのは……。
いつの間にか霧が深くなっていた。数メートル先も見通しが効かない。
その時、無数の人々が音もなく近づいてきた。
「?!」
目を疑った。
「ひい?!」
夢か幻だと思いたかった。ゆらゆら、ゆらゆら、と現れたそれは……。
「地…縛霊……?!」
顔色は青白く痩せ細り眼窩は凹み、苦悶の表情を浮かべている。今、川から上がってきたように雫を滴らせ、群れをなすようにやって来た。10?20? もっと、もっといる……。
足がすくんで逃げたくても逃げられない。やり過ごそう、そう思った。だが奴らは霧がまとわりつくように私を囲んで止まるじゃない!
―何で止まんのよ 勘弁してよ。
ゆらり、ゆらりと佇んでいる。何かを待っているように……。
皆、ここで自殺をしたというの? 膝の震えが止まらない。
亡者なのか霧なのか、もはや分からなかった。
―行って、早く行って。
だがいっこうに動き出しそうになく、1秒が1時間にも感じた。恐る恐る見渡すとある者はボーっと川を見たり、ある者はしゃがんだり……。私は息が止まりそうだった。ガクガクと腰が抜けて手すりを背にしてへたり込んだ。助けを呼ぼうにも声も出ない。
一瞬、右側から振動が伝わった。
「?!」
のけぞるようにして見るとそこには欄干の上で仁王立ちをする女性がいた。私はギョッとした。
―そんな所に立って、落ちたら危ないじゃない!
スカートが川風に吹かれてなびいている。歳は私と同じくらいだろうか? とても綺麗な人だ。じっと川を見据えていたが視線に気づいたのか、こっちを見た。私はたじろいだ。その目はどんよりとして死んだ魚のように光がない、けれど……、
―違う……?
私は金縛りにあったように動けなかった。彼女は川に向き直った。
―違う!
彼女の目は……。
あ!
身体を棒のように倒していき、両足が手すりから離れ宙に浮く。反動で再び揺れが伝わった。
!
いちごのワンポイントが入った靴下が一瞬垣間見え、衣服がはためくバタバタッという音が聞こえた。
ドボ……ンンン……
―ああ……!
それが合図だったかのように他の亡者共も次々と飛び込み、悲鳴が頭を貫いた。
『ワアァァーー!』
『キャアアァーー!』
ドボーンンンン、ドボーンンンン……
阿鼻叫喚が渦を巻き地獄の門が開いたようだった。
私は固く目を閉じ耳を塞いだ。
―助けて! ヒカル!
4
ハッと気がついた。横向きに臥せっていた。ゆっくりと身体を起こし、恐る恐る周りを伺った。
ー今のは……
亡者共の姿はない。ホッと胸を撫で下ろした。
―夢……?!
午前2時10分、トラックが走り去って行く。霧は晴れていた。疲れていたから幻覚でも見たんだわ。岩を背負ったように身体が重く、やっとの思いで立ち上がった。その時、ある物に気がつき私は目を剥いた。
「そんな」
それは欄干の手前にきちんと並べられていた黒のローファーだった。
「ああ………」
彼女は飛んだ、深い悲しみをたたえた瞳で……。
私はいつまでもその女物の靴から目が離せなかった。
終
作者小笠原玄乃
死にたくなる時が一生のうちに1,2回はあるのかも知れません。生き残る人は家族や友人に相談できたからでしょうか? しかし死んでしまう人は………。