私が小学校5年生の時の、夏休みのことです。
当時住んでいた町の集会所で、お祭りの準備をしたことがありました。そこは公園に面した平屋の小さな建物で、壁に扇風機の付いている、12畳ほどの和室がありました。
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お昼過ぎから、そこに町内の大人や子ども達が集まって、やぐらにつける飾りを作ったり、廊下でお神輿を磨いたり、公園で子ども会で出す、かき氷屋の看板を書いたりしました。
そうして準備が整うにつれ、ばらばらに帰っていき、最後は私と、同級生の男の子と、そのお祭りの実行委員長のおじさんが残りました。
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外から夕方を告げるチャイムが聞こえてきた頃、片付けをしていたおじさんが、がんばったご褒美にアイスをごちそうしようと言いました。
私はちょうど作業の途中だったので、2人がすぐ近くのスーパーへ買いに行くことになりました。
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私はおじさんたちに窓の網戸ごしに手を振ったあと、うつぶせに寝っ転がって、かき氷のメニューを書いていました。
すると突然、扇風機の音と、公園で遊んでいる子ども達の声が、ボリュームをしぼったように小さくなりました。
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あれ、と思った瞬間、左手に握っていたペンのキャップが、突然ヒュッとうしろの方へ飛んでいきました。
それが、誰かに抜き取られて投げられたと、はっきりわかる感覚でした。
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途端に部屋の空気が重苦しく、気圧が下がって耳が詰まるような、上から押し潰されるような感じになりました。
その前から、いわゆる「そういうもの」を何度か見ていた私は、心の中で、落ち着くように自分に言い聞かせながら深呼吸をし、キャップを拾いに行かず、そのまま作業を続けました。
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すると、どんどんうしろに引っ張られるような、吸い込まれるような感覚になり、息苦しくなってきたので、そのまま突っ伏して、おさまるのを待ちました。
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5分ほどそうしていると、少しずつ扇風機の音がもとの大きさで聞こえてきました。
そこでほっとしてゆっくり顔を上げると、目の前に黒いズボンの、正座しているひざが見えました。
shake
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ぎょっとして見上げると
灰色っぽい顔色で、 あごが外れたように大きく口を開けた男が正座していました。
白目になりそうなほど上を見て肩を上げ、胸の前で祈るように手を組んで、引きつけを起こしたようにガクガク震えていました。
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信じられないほど大きく開いた口のはしは赤く腫れていて、固く組んだ手の先はふやけていました。
白いワイシャツに黒いズボンを穿いているように見えましたが、汗なのか水なのか、全身びしょ濡れでした。
若い、20代ぐらいの男でした。
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私は、そのあまりの形相に声も出せず、ペンを握ったまま固まっていると、上に上がっていた男の黒目が、ゆっくり下りてくるのが見えました。
男はガクガクと震えているのに、なぜか目の部分だけが静かに、落ち着いているように見えました。
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どうしようどうしようと思いながらも、固定されたように目を逸らせずにいると、下りてきた黒目とカチッと目が合いました。
その時、玄関の方で大声が聞こえ、廊下をどすどす歩いてくる音が聞こえました。
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とたんに全身の力が抜け、横のふすまを見て、また男の方を見ると、もう姿はありませんでした。
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すると「おい!」という声と同時に、勢いよくふすまが開き、真っ青な顔をしたおじさんが入ってきました。
そしてそのうしろに、スーパーの袋を持って、こわばった顔をした男の子が立っていました。
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てっきりあの男が見えたのだと思ったのですが、そうではないようで、
おじさんが言うには、スーパーから帰ってきて建物に近づいた時、
中から何度も「申し訳ございません!!申し訳ございません!!」と絶叫する男の声が聞こえたというのです。
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公園で遊んでいた子ども達も、じっと建物を見ていたらしいので、同じように聞こえていたのだと思います。
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なぜか私には何も聞こえませんでしたが、ガクガクと震えているあの男と目が合った時、
なんというか、ものすごい量の無念さというか、悲しみのようなものが強烈に伝わってきたのを、今でも忘れることができません。
作者もくれん