長編9
  • 表示切替
  • 使い方

ネズミ

「ああもう、嫌だわぁ。

近頃、天井裏にネズミがいるのよ。

ガタゴト、カリカリ、タタタ――って、音がするの。

ねぇほら、聞いて? 聞こえるでしょ?」

nextpage

祖母が、急にそんなことを言い出したのは、たしか、私が小学4年生の頃のことだったかと思います。

当時、長年連れ添った祖父を病気で亡くし、すっかり気落ちしてしまった祖母は、長男である父の薦めで、私たちの家に同居していたのでした。

田舎の、築云十年だった祖父母の家とは違い、私たちの住む家は、都会の新築でした。

なので、ネズミなんか出るわけがありませんでした。

nextpage

「おばあちゃん、きっと気のせいだよ。

この辺でネズミが出たなんて話、私、聞いたことないよ?」

孫娘である私の言葉に、初めこそ不承不承納得してくれていた祖母でしたが、そのうち、ネズミの存在感は、彼女の中で膨らんでいきました。

nextpage

「ペン立ての鉛筆に、ネズミが噛じった跡があったの」

「床に小さな黒いものが落ちていたけど、これはネズミのフンよ」

「視界の端に、たまに黒いものが横切るの。

ネズミが天井裏から降りてきて、部屋の中を走り回ってるんだわ――」

nextpage

祖母以外の人間が見れば、鉛筆は古びてちょっと傷がついていただけ、床に落ちていたものは、ただの黒い毛糸のゴミでした。

耳をすませても天井裏から音なんか聞こえませんでしたし、ましてや、部屋の中を走り回るネズミの影なんか見えませんでした。

nextpage

しかし、祖母にとっては、それらは日々間違いなく起こっていたことで、

「夜中、天井裏を走り回るネズミの足音がうるさくて、よく眠れないの」

と、次第にノイローゼ気味になっていきました。

nextpage

そんな祖母のことを父親が、

「かあさんも、親父が死んで、ボケが始まっちまったかなぁ?」

と言うのを聞いて、おばあちゃん子だった私は、とてもさびしい気持ちになったのを覚えています。

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

そんな、ある日のことです。

私は祖母の部屋で、祖母とふたり、お団子を作っていました。

お団子と言っても、私たちが食べるものではありません。

ネズミ駆除のためのホウ酸団子――つまり、毒団子です。

ホウ酸と小麦粉、玉ねぎ、砂糖、それに少しの水を混ぜ合わせ、よく練ったものをお団子の形にします。

それを天日干しして十分に乾かし、 表面に白い粉が浮いてきたら、ホウ酸団子の出来上がりです。

nextpage

「おばあちゃん。このくらい練ればいい?」

私は手に薄いビニール手袋をはめたまま、祖母に尋ねました。

「もう少しだね。みつかちゃんの耳たぶくらいの固さになったらいいよ」

祖母は、優しい声で私に教えてくれました。

ネズミに関しては非常に神経質になっていた祖母でしたが、それ以外の日常的なやりとりは、特に問題なくできました。

なので、私は団子を作りながら、祖母と色々な話をしていました。

nextpage

「おばあちゃん。ネズミって確かに気持ち悪いけどさ、具体的にどんな悪さをするの?」

nextpage

「そうだねぇ。

まず、アイツらの体は汚いからね。ノミやダニ、悪い菌なんかがついていて、病気をまき散らすんだよ。

それに、何にでも噛みつく。

家の壁に穴を開けるし、電気のコードを齧られて、そこから火花が出て、家が火事になったなんて話を、よく聞いたもんだよ」

nextpage

なるほど、ネズミのもたらす被害は、思ったより深刻なようでした。

しかし私は、当時の祖母の態度から、「警戒」以上の「恐れ」や「憎しみ」の色を感じていました。

そんなことを、子供の言葉でたどたどしく伝えると、祖母はしばらく黙ったあとで、おもむろに口を開きました。

nextpage

「――ばあちゃんがまだ子供だった頃、近所に若いお姉さんが住んでいた。優しい人でね。ばあちゃん、大好きだった。

そのお姉さんが、ある時、子供を産んだ。お姉さんに似て、綺麗な顔をした赤ん坊だった。

ばあちゃん、よく家に遊びに行っては、その赤ん坊を触らせてもらったもんだよ――」

nextpage

遠い目をしながら、ゆっくりした口調で語る祖母。

私は、唐突に始まった昔ばなしに、一瞬、祖母の正気を疑いかけましたが、その瞳の奥にハッキリとした「恐怖」が映っている気がして、口を挟まずに耳を傾けました。

nextpage

「ある夜、お姉さんの家から突然、悲鳴が聞こえた。

それまで聞いたことのない、ゾッとするような、気が狂ったような、誰かの声だった。

ばあちゃんの父親が、慌ててお姉さんの家に駆け出していった。子供だったばあちゃんは、母親に止められたけど、お姉さんが心配で心配で、すぐに父親の後を走って追いかけた。

お姉さんの家に着くと、近所の大人が大勢集まって、なぜか皆、玄関の前でぼんやり突っ立っていた。

人垣の向こうからは、誰かの怒鳴り声と、そしてあいかわらず、狂ったような叫び声が聞こえていた」

nextpage

祖母は、大人たちの壁をかき分けて、なんとか家の中を覗き込んだのだそうです。

そこで、幼い祖母が目にしたもの。

それは――、

nextpage

「――地獄だったよ。

赤ん坊を抱えたお姉さんが、奇声を上げながら、クルクル、クルクル、独楽(こま)みたいに回ってた。

そんなお姉さんを、お姉さんの旦那さんが、怒鳴り声を上げて、なんとか押し留めようとしていたんだ。

それでもお姉さんは、クルクル、クルクル、クルクル。

まるで、お城の舞踏会みたいにフラフラ回り続けていた。

お姉さんが回る度、ピッ、ピッ、と何か赤いものが周囲に飛び散った。

そいつはね、血ぃだった。

よく見ると、お姉さんの腕に抱かれた赤ん坊――あの綺麗な顔した赤ん坊――の、小さな鼻と、耳が無かった――」

nextpage

私は、ゴクリと息を飲みました。

これが、祖母がネズミに対して異常な程執着する理由だったのです。

nextpage

「……さっきも言ったけどね、アイツらは何でも齧る。

鋭い歯でね。ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ、って。

家の壁だって、電気のコードだって、それに、人だってね。

かわいそうに、その赤ん坊は、ネズミに噛じられた怪我と、傷口から入った菌がもとで、そのあとすぐに亡くなってしまった。

お姉さんは、すっかりおかしくなって、しばらくして実家に帰されたそうだよ。

後になって、親や親戚から聞いた話だけどね――」

nextpage

その後、家のあちこちに毒団子が置かれました。

天井裏に祖母の部屋。

玄関、風呂場、台所。

トイレ、縁の下、庭の植え込みの陰など。

それこそ至る所に、祖母はその白い団子を置いたのです。

nextpage

私や両親は、少々うっとおしくも感じましたが、それで祖母の気が済むならと、何も言いませんでした。

実際、その後、祖母は、

「天井裏からネズミの足音が聞こえなくなったよ。

みつかちゃんと一緒に作った、団子のおかげだね」

と、笑みさえ浮かべるようになったのです。

nextpage

幻のネズミに怯える日々から開放され、ようやく、家の中に平和が戻ってきました。

ところが――。

nextpage

nextpage

separator

nextpage

separator

nextpage

「ええと……今日は佐藤くんはお休みです」

朝のホームルームで、クラス担任の若い女の先生が言いました。

教室が少しざわめきました。

佐藤くんは、いつも元気いっぱいなサッカー部の男子で、欠席することなんか、まずなかったからです。

nextpage

「先生ー、アイツ風邪ですか?」

佐藤くんと仲の良いクラスの男子が尋ねました。

先生は、その問いになぜか表情を強張らせました。

そして、

「佐藤くんは、その……、怪我でお休みです……」

とだけ言うと、いそいそと1時間目の授業を始めてしまいました。

nextpage

休み時間になりました。

私が自分の席で本を読んでいると、親友のナナちゃんがやって来て、そっと私に耳打ちしました。

nextpage

「ねぇ、ミィ。佐藤くんが休んだ理由(わけ)、私知ってるよ」

ナナちゃんは、そこでさらに声を落として言いました。

「佐藤くんね、入院してるらしいよーー」

nextpage

佐藤くんの家とナナちゃんの家はご近所で、親同士仲がいい、とのこと。

そして今朝、ナナちゃんの母親がゴミ出しに行った時、ちょうど家の前でタクシーから降りてくる、佐藤くんのママに会ったのだそうです。

聞けば、たった今、必要なものを取りに病院から戻ってきたところ、とのことでした。

nextpage

『そういえば、昨夜遅くに、近所で救急車のサイレンの音がしていたような』

そう思ったナナちゃんの母親が、何があったのかを尋ねたると、憔悴した様子の佐藤くんの母親は、それでも誰かに聞いてほしかったのか、話し出したそうです。

nextpage

「昨日の深夜、佐藤くんの親が寝てたら、二階の子供部屋から悲鳴が聞こえたんだって。

慌てて部屋に行ってみると、ベッドの上で佐藤くんが、うずくまって泣いてたんだって」

nextpage

部屋の電気を点けてよく見れば、パジャマ姿の佐藤くんは、右の耳を強く押さえていました。

その指の隙間からは血が滴り落ちて、着ているものとベッドのシーツを、赤黒く濡らしていたそうです。

nextpage

「それで怪我……? でも、なんで耳なんか……?」

私が頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、ナナちゃんは不意に口を開けて、自分の前歯を指さしてから言いました。

「――噛みちぎられてたんだって」

ゾッとしました。

ごく最近、そんな話を聞いたような……。

nextpage

「とにかくすぐに救急車を呼んで、病院に連れて行ったんだって。

傷の処置自体はちゃんとできたらしいんだけど、佐藤くん、今高熱を出してて、それで入院してるって話」

「その……佐藤の耳を……、アレしたのって……」

私は暴力的な言葉を濁しつつ、訊きました。

nextpage

「まあ、部屋の窓にはきちんと鍵がかかってたっていうし、子供の耳を食べるのが大好きな不審者……ってわけじゃないよね。

……たぶんだけど、アレの仕業らしいよ?

アレ、アレ。こんな都会にもいるんだねー」

nextpage

ネズミ。

ナナちゃんの口から出たその言葉が、なぜか奇妙に歪んで私には聴こえました。

nextpage

separator

nextpage

その後、同様の事件が1年生のクラスでも、6年生のクラスでも起きました。

学校側も、保護者に対して注意を促すプリントを配布しました。

ただ、不思議だったのは、被害は確実に増えているのに、肝心のネズミの目撃情報がないことでした。

どれほど用心深くて、すばしっこいネズミたちなのでしょうか。

nextpage

私の家では、このことを祖母には黙っていることにしました。

ただでさえ、ネズミに対して過敏に反応する祖母のこと、現実に被害が広がっていると知ったら、パニックを起こしかねないと考えたからでした。

もちろん、手作りのホウ酸団子以外にも、市販のネズミ対策の道具や薬やらをたくさん購入して、家の中や庭など、あらゆる場所にそれらを設置して、万全の対策を取りました。

とにかく、祖母に余計な心配はかけない。それが大事なことでした。

nextpage

ただ、このお話ーー私の、祖母との思い出は、この後、唐突に終止符を打つことになります。

nextpage

separator

nextpage

「嫌だわぁ。嫌だわぁ。

天井裏から話し声が聞こえるの。

ボソボソ、ヒソヒソ、何か言ってるの。

たまに、私の名前を呼んでるの。

ねぇほら、聞いて? 聞こえるでしょ?」

nextpage

祖母が、急にそんなことを言い出しました。

町では、ますますネズミ被害が増えていた、そんな時です。

ただ、祖母はその事実を知りません。

また実際、過剰に対策をしているおかげか、我が家にネズミの影は見えませんでした。

祖母以外の人間には、天井裏から話し声はおろか、ネズミの足音らしき物音だって、聞いていないのです。

nextpage

「いよいよボケちまったか」

そう言って、父親は肩を落としました。

nextpage

その何日後かの深夜のことです。

祖母の部屋から突如、恐ろしい絶叫が響きました。

同じ一階で、祖母の部屋に一番近かった私は、ベッドから飛び起きると祖母の下へと走りました。

nextpage

「おばあちゃん!?」

真っ暗な祖母の部屋。

廊下から差し込んだ電灯の光が、畳に敷いた布団の上に仰向けに倒れる祖母の姿を浮かび上がらせました。

nextpage

目を見開き、口は絶叫した時のままで、それでもピクリとも動かない祖母。

その顔には、恐怖が張り付いていました。

そして祖母の顔には、鼻と、耳がありませんでした。

nextpage

背後に、父と母が2階から降りてくる、慌ただしい足音が近づいていました。

私はただ、呆然と立ち尽くして、祖母の抜け殻を眺めていました。

nextpage

その時です。

部屋の隅の暗がりから、何か、小さなものが飛び出しました。

それは、短いフサフサとした毛に覆われた体と、細く長い尻尾を持っていました。

nextpage

――ネズミ?

しかし、ソイツは器用に二本足で立っていました。

そして、口元を真っ赤に濡らし、何かをモグモグと咀嚼している、「ソイツ」の顔を見た瞬間、私の耳に絶叫が聞こえました。

甲高いその声が、私自身の口から漏れているのに気がつくまでに、数秒を要しました。

nextpage

ネズミの体を持つ「ソイツ」の顔は、祖母がよく知るーーそして、私もよく知るーー亡くなった、祖父のものだったのです。

その忌まわしい人面ネズミは、ちょっと困ったような顔をして、ボソボソと小さな声で何かをつぶやいたあと、部屋の隅の暗がりの中に消えていったのでした。

〈了〉

Normal
コメント怖い
1
10
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ
表示
ネタバレ注意
返信