久しぶりに生まれ故郷へ帰った。
実家と言う訳ではない。もうここに自分の住んでいた家はないのだ。
この町で生まれ、高校卒業までここで過ごした。
大学入学を期に家を離れ、その後に両親もこの町から引っ越してしまったため、足を踏み入れる機会がなかった。
実に三十年ぶりということになる。
今回、仕事で隣町へ一泊の出張となり、そこから電車でひと駅のこの町を訪れてみたのだ。
駅を降り立ってみると三十年経っても相変わらずの田舎町で、駅前商店街もぱっと見たところ記憶とそれほど違わない。
しかし実際に歩いて見ると、並んでいる店はかなり昔と変わっていた。
酒屋がコンビニに変わっていたり、馴染みの肉屋だった店が中華料理屋に変わっていたりするし、もちろん変わっていない店もある。
交互に訪れる驚きと懐かしさを楽しみながら、百メートルにも満たない商店街を歩いて行くと、外れ近くにあるおもちゃ屋が目に入った。
都会では個人経営のおもちゃ屋はかなり廃れてしまったが、その店は記憶にあるそのままだった。
小学生の頃からお年玉を貰うと欲しかったおもちゃを買いに走ったし、中学生の頃はウォーターラインシリーズという戦艦のプラモデルに夢中になったっけ。
この商店街の中では、いつもメンチカツを買い食いしていた肉屋の次に馴染みのある店だ。
じんわりと胸に蘇るあの頃のワクワクした記憶につられて、店の中へと入ってみた。
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「いらっしゃいませ。」
店の中から若い女性の声が聞こえた。
子供の頃は五十歳くらいのおじさんが店を営んでいたため、その声に少し違和感を覚えたが、俺が過ごしてきた時間と同じだけこの店も年月を重ねているのだ。
あのおじさんがそのままここにいる訳がない。あの頃五十歳だとすると、今は八十を楽に超えているはずなのだ。
所狭しと積まれたおもちゃの箱とショーケースを眺めながら店の奥へと進んで行くと、奥には高校生か大学生くらいの女の子が店番をしていた。
あのおじさんの孫だろうか。記憶にある厳つい顔からは想像できない。
「何かお探しですか?」
つい女の子に視線を奪われていた俺に、彼女は軽やかな営業スマイルを投げかけてきた。
「いや、子供の頃にこの店へよく来ていてね。懐かしくて入ってみたんだが、少し店の中を見せて貰ってもいいかな。」
「まあ、そうだったんですね。もちろん、ゆっくり見ていって下さい。」
俺の他に客はおらず、女の子の言う通りゆっくりと見て回る。
この店の商品はどのくらい古いものからあるのだろうか。
食品などと違って賞味期限などないのだから、玩具はいつまでも在庫として置いておくことが可能なのだろう。
ひょっとしたらマニア間での取引値は元値よりも高くなっている物も多いんじゃないかと思わせるような、古臭い店の棚に並んだ玩具たち。
それらを眺めながら進んで行くと、ガラスのショーケースがあり、その中に飾られている一体の人形が目に留まった。
身長は三十センチ弱だろうか、肩より少し長い位のストレートヘアに薄いピンクのワンピース姿。
はやりの着せ替え人形と比べるとややふっくらした体型で、どことなく先程の店番の女の子を彷彿とさせる。
小さなクッションの上で両脚を前に投げ出し座っているのだが、何より興味を引かれたのはその目だ。
このサイズで市販されている人形の目は塗料で描かれているのが普通だろう。
しかしこの人形の目は、ガラスなのかアクリルなのか、澄んだ材料で作られたリアルな嵌め込みなのだ。
やや大きい目が栗色に輝いてこちらを見つめている。
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「その人形が気に入りましたか?」
いつの間にか傍に来ていた店番の女の子が声を掛けてきた。
「ああ、この人形って普通の着せ替え人形なの?それともBJD(球体関節人形)のような装飾用の人形なの?」
「この子は・・・この店で引き取ったんです。三十年ほど前に。」
まったく問い掛けの答えになっていない。しかしその返答に興味を引かれた。
「引き取った?三十年前?どういうこと?」
女の子はまた俺の問いには答えず、黙ってショーケースの扉を開けると人形を取り出し、大事そうに両手で持つと俺に向かって差し出した。
手に取って見ると、その重さと手触りからして全体はおそらく樹脂粘土でできたBJDのようだが、可動する関節部分は何か柔らかい材質で覆われていて見えないようになっている。
なかなか凝った造りだ。
「ある人の手作りだそうです。その人が、この店で売って欲しいって。」
「買ってくれじゃなくて、売ってくれ?」
「そうなんです。買取金はいらない、でもいつかこの人形を買いたいという人が店に来るから、その人の言い値で売ってくれって。」
それを聞いて俺はその人形を女の子に返そうと手を突き出した。
「そっか、それは僕じゃないな。僕には人形を集める趣味なんかないから。」
「そうですか?私はあなただと思いますが。」
女の子に人形を持つ手を押し返されながらそのように言われ、そんなことはないと思いながらもう一度人形の顔を見た。
そう言われたせいだろうか、人形の目が買って欲しいと求めているように感じてしまう。
「いくら?」
「お客さんの言い値ということですから。」
「でもこんな人形の相場って全く分からないんだ。」
「それでは百円で。」
「は? しかしそれじゃ、いくら何でも。じゃあ、これでどう?」
俺はそう言って三千円を差し出した。
「わかりました。ではそれで。」
女の子はいったん人形を手に取ると、箱などはないのだろう、無地の布製の袋に人形を入れ、リボンを掛けてくれた。
「お買い上げ、ありがとうございました。」
人形の入った袋を女の子から受け取り、店を出ようとした時にふと振り返って聞いてみた。
「この人形を売って欲しいって店に来たのはどんな人だったのかな?」
すると女の子はにっこりと笑ってこう答えた。
「そうですね・・・小柄で優しそうな女の人、でもちょっぴり寂しそうな雰囲気の人でした。」
まだ自分が生まれていない三十年前の事をまるで自分が見ていたかのように話す女の子に違和感を覚えたが、何となく納得して俺は頷いた。
「そう、どうもありがとう。それじゃ。」
女の子に軽く片手をあげて俺は店を出た。
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「あれ?」
店の外はすっかり夜になっていた。
店に入った時はまだ夕方で、茜色に染まる光の中を少ないなりにひと通りがあったはずだ。
しかし開いている店はちらほらしかなく、街灯に照らされた通りを歩く人もまばら。
それほどおもちゃ屋に長居をしたつもりはないのだが。
腕時計を見ると、八時近くを指している。おもちゃ屋に四時間近くもいたことになるが、そんなはずはない。
狐につままれたような気分で今出てきたおもちゃ屋を振り返ると・・・
「えっ・・・どういうこと?」
たった今出てきたはずなのにシャッターが閉まっているではないか。
シャッターが閉まる音など全く聞こえなかった。夢でも見ていたのだろうか。
しかし手にはリボンの掛かった布袋を持っており、袋の上から触ってみると間違いなく人形が入っている。
どこか異世界にでも迷い込んだかと周りを見回してみたが、先ほど見て歩いていた商店街に間違いない。
時間だけが飛んだとしか思えない。
念のために携帯を取り出して確認したが、やはり時刻は八時だった。日付も間違いなく今日だ。
何が起こったのか全く分からないが、あのおもちゃ屋に長居をしたと考える他ない。
とにかく駅へ戻ってホテルへ帰ろう。
首を傾げながらもそう思ったところで、ふと目の前にある小料理屋の暖簾が目に留まった。
考えてみれば今からホテルへ戻っても晩飯にはありつけない。
チェックインは済ませてあるのだから、ここで飯を食ってから帰ろう。
引き寄せられるように暖簾を潜り、ガラスの引き戸を開けて中に入ると、テーブルが二席と五、六人座れるカウンターがあるだけの小ぢんまりとした店だ。
客は誰もいない。
いや、なぜかカウンターの中にすら誰もいない。
店の人はトイレにでも行っているのだろうか。
「すみません。誰かいますか?」
そう問い掛けながら、店の中へと入り、後ろ手で引き戸を閉めた。
ピシャ
それと同時だった。
いきなり照明が消え、店の中が真っ暗になってしまったのだ。
「何だ?停電か?」
少しすれば目が慣れるだろうとしばらくじっとしていたが、まったく何も見えてこない。
真の闇というべきか。
とにかく店から出ようと見えない目をきょろきょろさせながら回れ右をして、今入ってきた扉を求めて手を前に伸ばして進んだ。
店に入って、一歩か二歩しか歩いていないはず。
しかし二歩歩いても、三歩歩いても扉に手が触れない。
どういうことだ?
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― どこへ行くの?
背後からかすかに女性の声が聞こえた。
突然の声に、思わずビクッとしたが慌てて声のした方を振り返った。
すると今まで漆黒の闇だった周囲がぼんやりと見える。
例えるなら新月の夜の星明り程度と言えばいいのか。うっすらと周囲の様子が分かる。
そこは・・・
見たことのない倉庫の中のような場所だった。
確かに小料理屋に入ったはずなのだが、なぜこんなところにいるのだろうか。
驚いて周囲を見回すと、奥にぼんやりと光るものが見えた。
「ひっ・・・」
思わず小さく声が出た。悲鳴といっても良いかも知れない。
それは人の姿だった。
非常に弱い蛍光塗料を髪の毛から服まで全身に塗ったように、薄く青白く光る人の姿。
髪形と服からそれが女性であることが判る。
そしてそれはゆっくりと滑るようにこちらに近づいてくるではないか。
逃げなければ。
そう思うのだが、まるで金縛りにでも遭ったように体が動かない。
その光はどんどん近づいてくる。
そして接近してくるに従い、まるで調子の悪い昔のカラーテレビのように、その青白い光に少しずつ色がついてくるのが分かった。
もちろんこの世の者ではないのだろう。
このような幽霊と思しきものに遭遇するのは生まれて初めてだ。
目の前までくるとその姿は若干の透け感があるものの、はっきりと色を伴い、そしてまるでスポットライトを浴びているように、暗闇の中で浮き立って見えていた。
その姿は・・・
さっきおもちゃ屋にいた女の子ではないか。
― 槇谷君・・・
目の前に迫った女の子は俺の名前を呼んだ。何故この女の幽霊は俺の名を知っているのだ。
俺の事を知っているということは、俺もこの子を知っているということなのか。
もう一度女の子の顔を注視して見るが、その顔に見覚えなんかない。
親子ほどの歳の差があり、この土地には三十年も足を踏み入れていないのだ。
知っているはずがない。
「誰だ?」
― 覚えてくれていないの?
女の子が悲しげにそう呟いた時だった。
突然、手に持っていた布袋がもぞもぞと動くのを感じた。
「うわっ!」
思わず握っていた手を離すと、布袋はぼとっとコンクリート剝き出しの床の上に落ちた。
落ちた弾みだったのだろうか、口を縛っていたリボンが解けている。
そして信じられないことに袋からあの人形が這い出してきたではないか。
もぞもぞと袋から出てきた人形は、ゆっくりと立ち上がり俺を見上げた。
「ひっ、何だ?何なんだよ、いったい!」
まったく思考が追いつかない。
女の子はさらに俺に近づいてきた。
― 私の名前は、君波ゆかり。本当に憶えていない?
君波ゆかり?君波・・・君波・・・
記憶にあった。確か、近所に住んでいて、幼稚園から高校まで一緒だった。
しかし幼馴染と呼ぶには程遠い、知り合いにも満たない存在でしかなかったはずだ。
― でも私は小さい頃からずっとあなただけを見ていた・・・
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何度諦めようと思ったか知れない。
しかし近くに住み、同じ学校に通い続けることで君波ゆかりの思いが途切れることはなかった。
同じ高校へ通っていることもあり、帰り道も一緒になることが多い。
そんな時、君波ゆかりは必ず後ろを歩いていた。
前を歩くとその姿を視界に置くことは出来ない。
背後からそっとその後ろ姿を見つめながら家まで帰るのだ。
それがささやかな楽しみだった。
ところが、あの日・・・
いつものようにこっそりと数十メートル後ろを歩く彼女の前に数人の男が立ち塞がった。
この辺りで有名な不良グループの連中だ。
君波ゆかりはその連中につかまり、近くにあった廃工場の倉庫に引きずり込まれ暴行されてしまったのだ。
― あの時、私のあげた悲鳴であなたは振り返った。そして私は振り返ったあなたに助けを求めたのに・・・
― あなたはそのまま行ってしまった・・・
そしてその事件以降、恐怖で家から一歩も出られなくなった君波ゆかりは、その頃習っていた人形作りに没頭した。
自分の分身を作り、いつの日か彼の手元に置かれることを願いながら。
彼女自身、その思いが恋心なのか恨みなのか判らなくなっていた。
寝る間も惜しみ、ただひたすら夢中で手を動かし、最後は自分の髪の毛を切って人形に植え付けた。
完成まで三年の月日が流れていた。
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― なのにあなたはもうこの町にはいなかった。
そして君波ゆかりは、その人形を良く知っている商店街のおもちゃ屋の店主に預けたのだ。
人形が完成したことで生きる糧を無くしてしまったのか、その直後に彼女はあの忌まわしい廃工場の倉庫で手首を切った。
そしてそのおもちゃ屋も五年前に店主が亡くなったことにより閉店してしまったのだった。
― 私はこのお人形と一緒に、おもちゃ屋さんでずーっとあなたの事を待っていたのよ・・・
人形は相変わらず足元で俺を見上げている。
― 何で、何で、あの時助けてくれなかったの?
「ごめん。全く憶えていない。」
本当だった。
そんなことがあったのかもしれないが、あの連中がまた女の子にちょっかい出してるよ、と軽く流したのだろう。
しかしそう答えた途端、それまでどこか寂しげだった彼女の表情が一変した。
目がつり上がり、髪の毛が逆立ち、噛みつかんばかりに大きく口を開けたのだ。
― 憶えてないだと!!
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その途端、強い風が俺の顔面に吹きつけた。
思わず顔を背けたその瞬間、俺は自分の体が動くことに気がついた。
「うわ~っ」
夢中で踵を返すと猛然とダッシュした。すると倉庫の出入り口がすぐ目の前にあるのが見える。
倉庫の鉄の扉には幸い鍵は掛かっておらず、そのまま外へと飛び出した。
しかし扉の外はコンクリートのステップになっており、それと気づかなかった俺はそのまま思い切り転んでしまった。
「痛ててて・・・」
相当な勢いで頭から倒れ込み、一瞬息が詰まったが痛みよりも恐怖が先に立ち、彼女が追い掛けて来ていないか、慌てて振り返った。
「あれ?」
しかしそこには倉庫などなく、何もない雑草が生い茂った空き地だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、自分の体に異常がないことを確認すると、改めて周りを見回した。
彼女の姿はない。
暗い空き地のすぐ横に、所々街灯に照らされている道路が見える。
この場所は記憶にあった。
あの頃住んでいた家から駅へと向かう道だ。
そしてあの頃、この場所には廃工場の倉庫が建っていた。
君波ゆかりが連れ込まれたと言っていた倉庫・・・
しかしあの商店街からこの場所まで数百メートルは離れている。
俺は君波ゆかりの幽霊に惑わされていたとしか考えられない。
すると突然足元でカサカサと雑草が揺れる音が聞こえた。
何だろうと見下ろすと、すぐ足元にあの人形が立って俺を見上げているではないか。
「うわーっ」
俺は反射的にその人形を思い切り蹴飛ばした。
「ぎゃっ!」
声を出すはずのない人形の悲鳴が聞こえ、人形はあっけなく宙を舞って数メートル先の雑草の中へ消えた。
俺はその人形の落ちた先を見届けることなく再び猛ダッシュして道路へ出ると、そのまま駅へと走ったのだった。
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ホテルへ戻っても、君波ゆかりとあの人形が現れるのではないかと、布団にくるまったまま一睡もできなかった。
しかし何事もなく夜が明け、周りが明るくなったところでようやく落ち着きを取り戻してきた。
「いったい何だったんだ。俺は何も悪ことなんてしちゃいない。」
眠い目を擦りながら何とかその日の仕事を終え、家族の待つ家へと戻った。
普段の生活圏へと戻り、時間が経ってくると昨夜の出来事が夢だったように思えてくる。
寝室に入り、旅行用のバッグを開けて着替えなどの洗濯物などを取り出した。
「!!」
バックの一番底に見覚えのある布袋が入っているのが見えた。
その布袋を取り出すと、確かにあの人形が入っている感触がある。
俺はそのまま家を飛び出し、近くのゴミ収集場へ走るとゴミ入れの中へ布袋を叩き込んだ。
「何なんだよ、いったい・・・」
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********
翌朝目を覚まし、リビングへ行くと女房と、部活の朝練がある息子が既に朝食を食べていた。
「おはよう」
自分の席に座るとそのまま固まってしまった。
目の前にある棚の上にあの人形が座っているではないか。
「お、お前、あの人形は?」
確かに昨夜捨ててきたはずだ。
「あら?あなたが昨日出張へ行ったときに買ってきてくれたんでしょ?朝、このテーブルの上に袋に入って置いてあったわよ。丁寧にリボンまで掛けて。」
「そ、そんな・・・」
「あなたが人形を買ってくるなんて珍しいわね。でも可愛らしい球体関節人形だわ。ありがとう、気に入ったわ。」
すぐにでも捨てさせたいのだが、女房に何と説明すればいいのだろう。
悪いことが起こらなければいいが。
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*********
不安は的中した。
その日の夕方、息子が交通事故に遭ったと会社に連絡が入ったのだ。
信号無視の車に轢かれ、ほぼ即死だったらしい。
急いで病院へ駆けつけると、すでに息を引き取った息子の横に女房が座っていた。
今朝はあんなに元気だったのに。
病院へ向かう間に覚悟はしていたが、いざ目の当たりにすると涙がこみ上げてくる。
そこでふと女房の膝の上に何かが乗っているのに気がついた。
あの人形だ。
「何でそんなもの持ってきたんだ!」
思わず怒鳴ってしまった。
「あなたが連れて帰ってきた人形だもの。もしかしたら息子を助けてくれるかもって思ったのよ。」
「そんな訳がないだろ!よこせ!」
「嫌よ!」
人形へ伸ばした俺の手を避けると、女房は人形を抱きしめて病室を飛び出していった。
あの人形が息子を助けてくれるはずがないだろう・・・
そう思いながら今まで女房が座っていた椅子に腰かけ、もう息をしていない息子をみつめた。
自分が連れ帰って来てしまったあの人形のせいだとは思いたくない。
その視界の隅、息子が横たわっているベッドの向こうにある窓の外を何かが上から下へと横切った。
「へっ?ま、まさかっ!」
慌てて窓へ駆け寄り、下を見た。
三階の病室から見下ろした窓の下には、あらぬ姿勢で倒れている女房の姿があった。
その頭の横にはあの人形が落ちているのが見える。
「何で、何でこうなるんだ・・・」
俺はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
息子を溺愛していた女房が、息子の死を目の当たりにして錯乱し、病院の屋上から発作的に飛び降りてしまった。
客観的に見ればそういうことなのだろう。
しかし・・・
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こうして俺はひとりぼっちになってしまった。
ガランとした家の中。
しかし正確に言えば、ひとりではない。
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リビングのテーブルの上にはあの人形が座っている。
女房が飛び降りた時に警察が回収したはずなのに・・・
そして夜になるとあの女もその姿を見せる。
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しかし、もうそれを何とかしようという気力もない。
たぶん俺が女房と息子の所へ行けるのもそう遠くないだろう。
それならそれでもいいさ・・・
…
◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
被害者の恨み、憎しみって、場合によっては直接の加害者ではなく、自分を助けてくれることが出来たはずの人に向くことってありますよね。
たとえ、その助けることが出来たはずの本人が自覚していなくても。
このような場合を指して言えるのか解りませんが、人の思いが噛み合わないって不幸ですね。