小さい頃から絵が好きだった僕は、中学に入ると迷わず美術部へ入部した。
絵を描き始めるとすぐにその世界に没頭するのだが、基本的に毎日五時きっかりに美術部の部活を終えて学校を出ていた。
中学三年になり、最後の卒業制作に取り組んでいる秋になってもこの習慣は変わらなかった。
毎日同じ時刻に帰宅していると、秋も深まってくるこの季節は日を追って日没が早くなることをひしひしと感じる。
先週までは自宅に帰り着く頃に日没だったのが、たった一週間で学校を出る前に陽が沈みかけている。
それは毎年同じであるはずなのだが、この秋は違っていた。
地平線に太陽が隠れ、目の前に伸びる自分の影が見えなくなった途端、背後に何かの気配を感じ始めるのだ。
振り返ってみても誰もいない。
自分に霊感というものがあるのかないのかよく分からないが、一体何なのだろう。
気味悪く思いながら、それでも卒業制作の絵に熱中する日が続いた。
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卒業制作として取り組んでいる絵は、校門の脇にそびえる楡の大木の根元に立つ女生徒を大型の30号キャンバスに描いた絵だ。
夏の終わりの頃、卒業制作の題材を求め校庭をうろついていた時にその女生徒を見掛けた。
彼女は鮮やかなオレンジ色の夕陽の中、その木に寄り掛かって立っていた。
見知らぬ生徒だったが、誰かを待っているのか、どこか物憂げな雰囲気に惹かれ、思わず少し離れたところでこっそりとスケッチブックを広げて鉛筆を走らせた。
その時にその姿をスマホでこっそりと撮影し、今はその写真を見ながらこの絵を描いている。
そう言えばあの時以来彼女の姿を見ていない。
制服からして同じ学校のはずなのだが、普段の生活で見かけることがない。
スマホを取り出し、改めてあの写真を見てみた。
見ると自分の絵をああしなければ、こうしなければと、絵の事が頭の中を駆け巡るのだが、眺めているうちにふと違和感を覚えた。
夕陽に照らされた楡の木の影ははっきりと写っているのに、それに寄り添っている彼女の影がないのだ。
絵は彼女の膝から上を描いており、いつも拡大して見ていた為に、これまで気づかなかった。
あの時見た彼女は、この世の存在ではなかった?
そして学校の帰りに感じていたあの気配は、もしかすると彼女だったのだろうか。
それに気づいた途端に筆が鈍った。意欲が失せたわけではない。
このままこの絵を、この世の存在ではない彼女の絵を描き続けて良いのだろうかという葛藤に苛まれ、絵の前に座るのだが筆が進まない。
そして今日もあの気配を背後に感じながら家まで帰った。
これまでもそうだったが、玄関を入ると不思議にあの気配を感じることはない。
もしかしたらあの子は僕の家の前までついて来てそのまま…
もう夜の九時を過ぎていたが、念のため外を確認しようと二階にある自分の部屋のカーテンを開けた。
その途端に激しい後悔が湧きあがった。
彼女が窓の外で宙に浮き、僕を見つめて微笑んでいた。
そして窓ガラスの向こうにいるはずの彼女の声がはっきりと聞こえたのだ。
―アノ エ ハ カナラズ カンセイ サセテネ ―
それだけ言うと彼女はスッと消えてしまった。
慌てて窓を開けて外を見たが、彼女の姿は何処にもない。
今日、初めて正面から彼女の顔を見たが、やはり見覚えのない顔だ。
いったい彼女は誰なのだろうか。
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理由は分からないけれど、あの子も絵の完成を願っている。
完成した暁に何が待っているのかは知らないが、ここでやめるわけにはいかないようだ。
それは彼女に対する恐怖からなのか、別な想いなのかは自分でも分からない。
すでに高校への推薦入学も決まっており、定期試験以外は勉強に気を取られることもない。
気を取り直して再び絵に集中していたある日、気がつくと美術部の顧問である佐伯守男先生が背後に立ってじっと僕の絵を見ていた。
「もうすぐ完成だな。ところで聞こうと思っていたんだが、この絵のモデルは誰なんだ?」
佐伯先生は優しく面倒見の良い先生で、僕も入部した時から世話になり、先生のお陰でここまで上達したと言っても過言ではない。
そんな先生に聞かれ、僕は信じて貰えるかどうかわからなかったが、正直に彼女について話した。
すると佐伯先生は、怪訝そうな表情で何かを考えるような素振りを見せると、何故か何も言わずに立ち去ってしまったのだ。
僕が何かおかしなことを言ったのだろうか。
いや、間違いなく妙なことを言ったのだが、それが先生の気に障るようなことだったのだろうか。
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そして彼女が傍にいることをうっすらと感じながらもその姿を見ることもなく、年が明ける頃に絵は完成した。
自分でも感心するような出来栄えで、案の定、二月に開催された県のコンクールで入選を果たしたのだ。
そしてその絵が返却された日、高校受験で登校する生徒も少ない中でクラス担任の岸本由香先生から入選した絵を見せて欲しいと言われ、美術室へと案内した。
「この・・・この絵のモデルは誰なの?」
搬送されてきた箱から絵を取り出し、保護シートを外した途端、絵の良し悪しを論じる前に、いきなり岸本先生も佐伯先生と同じ質問をしてきた。
「先生は、誰だと思ったんですか?いえ、誰だか知っているんですか?」
「どういうこと?この絵を描いた君が知らないの?」
僕はもう一度、佐伯先生にした話を繰り返した。
すると、岸本先生もまたそこで黙ってしまった。
「先生、お願いです。これが誰なのか教えてくれませんか?」
そして岸本先生は重い口を開いて、この子は十年ほど前にあの楡の木で首を吊って亡くなった女生徒にそっくりだと言った。
ということは、あの夏の日の夕方、僕はその首を吊った女生徒の幽霊に魅せられてこの絵を描き始めたということか。
しかし彼女がどうして首を吊ったのかを岸本先生は頑なに教えてくれなかった。
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そして今日は、三年間楽しく過ごした中学生活最後の日、卒業式だ。
友達と笑顔で別れの挨拶を済ませると、僕はひとり美術室へ向かった。
あの絵は僕の家に持って帰るには大きすぎることもあって、常設として美術室に飾ってくれることになっている。
誰もいない美術室で僕はその絵の正面に座った。
絵を眺めていると、脳裏にあの夏の日の夕方、彼女を見掛けた時の情景がまざまざと蘇る。
あの時、僕が彼女を見掛け、この絵を描き始めたのは、たまたまだったのだろうか、それとも何らかの必然性があったのか。
ふと、絵の中の少女が動いたような気がした。
いや、間違いなく動いた。
やや斜め前方を向いているはずの彼女の目が、はっきりとこちらを見ているのだ。
―ありがとう―
頭の中で声が響いた。
いつだったか、絵を完成してくれと頼まれたあの時と同じ声だ。
「どういたしまして。」
僕は知っている。
彼女の想いの矛先は僕ではないことを。
岸本先生に話を聞いてから、彼女の自殺の原因についていろいろと聞いて回ったのだ。
そして知った。
原因は佐伯先生だった。
当時、中学二年生だった絵の中の少女は、佐伯先生を熱烈に慕っていたそうだ。
しかし、佐伯先生は別の女性と結婚してしまった。
それを知り、酷く落胆した彼女はあの楡の木に縄を掛けて首を吊ってしまったのだ。
大人の目から見れば、そんなことで?ということかもしれないが、ひとつのことに熱中すると他が見えなくなる彼女の性格に合わせて、何事も極端に考えやすい中二という年頃もあったのだろう。
もちろん佐伯先生と彼女に教師と生徒以上の関係は全くなく、佐伯先生が直接の責任を問われることはなかった。
そして、この絵を美術室に置いてくれるようにお願いしたのは僕なのだ。
この絵は僕が持っているべきではないし、絵の彼女もそんなことを望んでいないことは明らかだ。
佐伯先生にお願いすると、彼は困ったような、そして悲しそうな表情を浮かべたが、それを了承してくれたのだ。
しばらくの間、僕の事を見ている絵の中の彼女と見つめ合った後、僕は彼女に心の中でさよならを言って美術室を後にした。
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卒業してから五年が経ち、あの絵の事などすっかり忘れて大学生活をエンジョイしている中、同窓会が開かれた。
そこで興味深い話を聞いた。
友人の妹があの中学校に通っており、あの学校の七不思議に新しい話が加わったと。
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それは『美術室に佇む少女』・・・
彼女はまだあそこにいるんだ・・・
佐伯先生は元気に過ごしているだろうか。
…
◇◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
この作品は、昨年11月にふたば様の掲示板に投稿させて頂いた800字怪談『逢魔ヶ時の少女』を約3200字まで拡大してフルストーリーに仕上げてみたお話になります。