長編9
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家庭教師

俺、五十嵐翔が大学生の時の話。

親からの仕送りがあまり多くない俺は、常にアルバイトをしていなければ生活できない状態であり、そんな大学三年の春、バイト先のレストランから帰る途中で電柱に貼られた家庭教師募集の張り紙を見つけた。

今時家庭教師を張り紙で募集するなんて珍しいなと思いながらも内容を見て見ると、生徒は高校一年生の女の子で、週二回、月三万円という条件だった。

電話番号だけで住所は書かれていないが、張り紙で募集する位だからこの近所だろう。

今のレストランのバイトが週三日であり、もう一本何かやりたいと思っていたところだったので、試しに電話してみることにした。

しかし時計を見ると夜十時を過ぎており、初めて電話するには少し非常識な時間かと思ったが、張り紙を見ると電話番号の下に小さく、(電話は20時~23時でお願いします)と書いてある。

おそらく仕事の都合か何かなのだろう。相手がこの時間が良いと言っているのだから遠慮することはない。

張り紙には、『都島』と名字のみ記載されているが、何と読むのだろうか。

としま?みやこしま?まあ、電話すればなんとかなる。

「もしもし、夜分遅くすみません。五十嵐と申しますが、みやこしまさんのお宅ですか?」

その場で電話を掛けると、母親と思われる女性がワンコールで出た。

「はい、『つしま』ですが。」

外れだった。まあ、どうでもいい。

「あ、失礼しました。電柱に貼ってあった家庭教師募集を見て電話したのですが。」

「そうですか。今どちらにいらっしゃいますか?」

場所を聞かれても住宅街の路上だ。どうやって説明しようか一瞬悩んだが、町名とざっくり電柱の場所を伝えた。

「ああ、あの場所ですね。条件等いろいろ確認したいので、遅い時間で申し訳ありませんが家まで来て貰えますか?」

電話で説明された家の場所は、ここからそれほど離れていないようだ。

家の前で娘が待っているというので俺はすぐに歩き始め、言われた通りに角を曲がりそのまま真っ直ぐ歩いて行くと、前方の街灯の下に女の子が立っているのが見える。

「あの、五十嵐先生ですか?」

高校一年生であれば、十五か、十六歳。小柄でまだ幼さが残る可愛い女の子だ。

「まだ先生になると決まったわけじゃないけど。都島さんですね?」

「ええ、こちらへどうぞ。」

女の子はそう言って家の中へ案内してくれた。

家はどこにでもあるような普通の戸建て住宅で、玄関を入ると横にあるリビングルームに通された。

「すみません。こんな遅い時間にわざわざ来て頂いて。」

先程の電話と同じ声が聞こえ、キッチンから母親が麦茶を持ってリビングへ入って来た。

母娘だけあってよく似ている。

母親もかわいいながらに大人の色気を感じさせる艶っぽい雰囲気の人であり、知らなければ高校生の娘がいるようには見えない。

俺が簡単に自己紹介すると、母親は知佳子、娘は高校一年で瑠奈だと名乗り、そして父親は十年前に他界し、母ひとり子ひとりの母子家庭なのだと言った。

「それで、どんな科目を希望されているんですか?」

俺の問いに瑠奈ちゃんが少し考える素振りをした後、俺の顔色を窺うようにして言った。

「まだ、高校の授業が始まったばかりでよく解らないから、週二回三時間で、教えて貰う中身はその都度、ということでは駄目ですか?」

一応俺が今通っている大学は国立であり、高一レベルならセンター試験でひと通りやってきている。

「基本的な五教科ならかまわないよ。美術とか音楽、保健体育は勘弁して欲しいかな。」

「やだ先生、保健体育だなんて。この子にはまだ早いですよ。」

知佳子さんが笑いながら横やりを入れてきた。

何を考えてるんだ、この母親は。冗談にしても子供の前で言うことじゃないだろ。

「お母さんたら。だから保健体育はやらないって、先生が言ってるじゃない。」

瑠奈ちゃんが苦笑いしながら母親の肩を叩いた。

なかなか楽しい母娘かも知れない。

結局、週二回、夜七時から十時までの三時間ということで話がまとまった。

しかし、少し気になることがあった。

何となく家の雰囲気が変なのだ。

特に音が聞こえたとか、影が見えたとか言う訳ではない。

見た目は普通の一般的な家なのだが、気配というか、違和感というのか、そんな何かを感じるのだ。

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**********

家庭教師はその翌週から始まった。

「いらっしゃーい!」

時間通りに家を訪ねると、すぐに瑠奈ちゃんが出迎えてくれたのだが、いきなり手を掴まれ、そのまま手を引かれて二階にある彼女の部屋に入った。

「お母さんがね、まるで先生が自分を訪ねてくるみたいにはしゃいでたから、急いで部屋に連れて来ちゃった。だってお母さんにつかまると、時間が勿体ないでしょ?」

瑠奈ちゃんなりのヤキモチなのかとも思ったが、実際にあのお母さんなら何時間でもお喋りしそうだ。

ずっと男っ気のない家だったようだから、そんなこともあって喜んでくれているのだろう。

とにかく歓迎してくれるに越したことはない。

「さあ、じゃあ何から始めようか。」

「んとね、保健体育!」

「よし!じゃあ、服を脱いで。」

「え?噓よ、嘘。保健体育の授業はやらないっていったでしょ。もうっ。先生のエッチ!数学やろ、数学。」

そして瑠奈ちゃんが数学の教科書を広げたところで知佳子さんが入って来た。

「はい、お茶とお菓子よ。頑張ってね。」

「もう、お母さんたら。入ってくる時はノックしてよね。」

「あら、いいじゃない。別に悪いことしてるわけじゃないんでしょ?」

「そう言う問題じゃないの!」

まあ、こんな感じで楽し気に始まったのだが、ソレが起こったのは、一時間半ほど経ってからだった。

ふと尿意を催した俺は瑠奈ちゃんに課題を与えて席を立った。

トイレは一階にあり、部屋を出て後ろ手でドアを閉めたところで、知佳子さんが目の前に立っているのに気付いた。

「あれ?どうしたんですか、こんなところで。」

「うん、瑠奈が真面目にやっているか様子を見に来たの。」

「そうですか。真面目にやってますよ。ちょっと、トイレをお借りしますね。」

俺はそう言って階段を降り、トイレに入ろうとしたところで、キッチンから水音が聞こえているのに気がついた。

食器の触れ合う音も聞こえる。

何だろうと思いキッチンを覗くと、なんと知佳子さんが洗い物をしているではないか。

「あら、先生。どうしたんですか?」

「あ、いや、ちょっとトイレに・・・お母さん、今、二階にいませんでしたか?」

すると知佳子さんは不思議そうな顔をして首を横に振った。

「いいえ、夕食の片付けをしてましたけど・・・」

「そ、そうですか。」

取り敢えず、トイレで用を足すとまた二階へと戻った。

「先生、出来ましたよ。」

椅子に座ると、瑠奈ちゃんがドヤ顔でノートを差し出してきたが、どうにも集中できない。

狐につままれたような、というのはこういう事を言うのだろう。

それでも気を取り直して授業の続きを始めたが、先ほどの事があったからだろうか、瑠奈ちゃんと並んで勉強している背後で人の気配を感じるのだ。

何気ない素振りで振り返ってみても、誰もいない。

「先生、さっきからどうしたんですか?後ろばかり気にして。」

瑠香ちゃんが怪訝そうな顔をして尋ねてくるが、さすがにお母さんがふたりいたとは言えない。

それに背後に感じる気配が知佳子さんとは限らないし、単なる気のせいかも知れないのだ。

「ううん、何でもない。さあ、あと少しだから、頑張ろう。」

先日、家庭教師の応募に訪れた時にも奇妙な違和感があった。

しかしその時は人の気配などではなかった。

今日は、あの時の違和感はそのままに、更にすぐ背後で人の気配を感じるのだ。

むちゃくちゃ居心地が悪い。

ひょっとして知佳子さんの生霊か?

いや、いくら娘の事が気になると言っても、そんなことはあり得ないだろう。

それでも何とか予定の三時間が過ぎ、授業に区切りをつけると席を立った。

「じゃあ、また三日後に。」

口ではそう言ったが、心の中ではもう無理かもしれないと思っていた。

瑠奈ちゃんは素直で可愛いし、先ほどの件を別にすれば、知佳子さんも綺麗で優しい。

しかしこの雰囲気には耐えがたいものがあるのだ。

するとそれを感じ取ったのだろうか、いきなり瑠奈ちゃんが俺の手を握った。

「先生、私、先生の事が気に入りました。今後ともよろしくお願いしますね。」

こんな可愛い子にこんな事を言われたら、思わずにやけてしまう。

まだこれから今日の復讐をするからと手を振る瑠奈ちゃんを部屋に残して階段を降りて行くと、知佳子さんが下で待っていた。

「ご苦労様でした。お疲れでしょう?お茶でもいかがですか?」

優しく微笑む知佳子さんを見ていると、やはり先ほどの事は気のせいだったとしか思えない。

「いえ、もう遅いですし、明日も朝から大学の授業があるのでこれで失礼します。」

すると知佳子さんはすっと傍に寄ってきて俺の腕を抱くと内緒話をするように俺に顔を寄せてきた。

「瑠奈だけじゃなくて、たまには私の話し相手になって下さいね。」

そう囁いて俺の腕からすっと離れたのと同時だった。

「あら、先生、終わったんですか?」

キッチンの方から聞こえてきたのは知佳子さんの声。

そしてその途端に目の前の知佳子さんがすっと消えてしまったのだ。

「え、え、え?」

次の瞬間、俺は靴を突っ掛けて何も言わずに玄関から飛び出していた。

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***********

一体何が起こっていたのだろう。

俺は幻を見たのだろうか。

艶っぽい知佳子さんに対する俺の無意識の妄想だったのか。

しかしあの家の雰囲気が尋常でなかったのは間違いない。

とにかく、あの家の家庭教師は辞めよう。

次の家庭教師の日にいきなり辞めるというのは気が引けるし、こういうことを電話で済ませるのは好きではない。

今度の日曜日にでも一度顔を出して直接伝えよう。

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**********

「え?どういうこと?」

日曜の午前中、都島家の前に立った俺はあっけに取られた。

門扉は固く閉ざされ、そこには大きく『売家』の文字と、不動産屋の連絡先の書かれた看板が下がっていた。

家庭教師に来たのが、二日前。

その間に売りに出されたのかと思い、中を覗き込んでみた。

庭には雑草が生い茂っており、とても昨日、今日に退去したとは思えない。

一体何があったのか。

そこへちょうど買い物に出かける様子の女性が通りかかったので聞いてみた。

「あの、すみません。この家はいつから空き家になっているんですか?」

「二年、いえ、三年前からかしら。やっぱり、あんなことがあったんだから売れませんよね。」

「あんなこと?」

その女性の話を聞いて俺は固まってしまった。

三年前にこの家で無理心中があったそうだ。

母親が高校一年生になったばかりの娘を刺し殺し、自分も首を吊ったらしい。

「お父さんが病気で亡くなってから、収入も途絶え、お母さんがパートで働いてたみたいだけど、家のローンだ何だかんだ、そして娘さんが高校へ入学して、まったく立ちいかなくなったみたい。可哀そうよね。特に娘さんが。」

女性はそれだけ話してくれると、それじゃ、と言って立ち去った。

あのふたりは幽霊だった?

あの家の中に漂っていた異様な雰囲気は、俺の気のせいなんかではなかったのだ。

しかし瑠奈ちゃんのあの明るさは、ひょっとすると自分が殺されたことに気づいていないのかもしれない。

結局、入学したばかりの高校生活を、勉強に、恋に、エンジョイしたかったのだろう。

そして知佳子さん、あの艶っぽい目つきは色気ではなく、誰かにすがりたかったのか。

とにかく、もうこの家に近づくのは止そう。

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そんなことを考え、ため息を吐いて家の前から立ち去ろうとした時だった。

―アシタ ダカラネ。ワスレナイデヨ。センセイ・・・―

背後からはっきりと瑠奈ちゃんの声が聞こえた。

◇◇◇ FIN

Concrete
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