私は小さい頃から祖母に連れられて近所のお寺に行っていました。
目的は祖父のお墓参りだったのですが、このお寺の裏山には県の指定遺産になっている五百羅漢像があるんです。
木の生えていない、苔むした山の斜面に無造作に置かれているたくさんの石仏。
実際には五百体もないかもしれませんが、ちょっと数える気になれないほどの数です。
もちろん柵に囲まれていて傍へ寄ることは出来ないのですが、一体一体が異なる表情、ポーズをしていて、見ていて飽きません。
祖母曰く、この羅漢像の中には必ず自分に似た像があるのだとか。
でも私は、その時の気分に合った像を探すのが楽しみでした。
楽しい時にはその楽しさに合った姿をした像を見つけてはしゃいだり、またどうしようもなく落ち込んだ時にはそんな姿をした石仏を見つけ、自分だけじゃない元気を出さなきゃと思ったりしていました。
本当は拝観料が必要なのですが、お寺の人達も顔見知りでいつもタダで入れて貰っていたこともあり、中学生になる頃には何かあるとひとりで羅漢像達に会いに行っていました。
そしてその習慣は、頻度こそ減ったものの、大人になった今でも続いているのです。
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高校を卒業し、医療事務の専門学校を出た私は、親戚の紹介で小さな病院へ就職しました。
親戚の話によれば、院長は腕も良く、信頼のおけるいい人だということで安心していたのです。
しかし蓋を開けてみると、この院長という男は外面が良いだけで、専門学校卒の私をバカにし、セクハラ、モラハラの嵐。
同じ職場の同僚や看護師達も自分にとばっちりが来ることを恐れてか、見て見ぬふりを決め込んでいる始末。
そして院長はこのことを口外すると紹介してくれた親戚が恥をかくことになるぞと脅しを掛けてくるのです。
ただひとり、私のことを気に掛けていてくれる非常勤の若いお医者さんも病院に来るのは週に一回だけ。
とにかく、辞めることも出来ず、ただ無気力に職場へ通う毎日が続いていました。
そんなある日、ふと思い立ってあのお寺へ足を向けたのです。
特に誰かの命日だとか、彼岸だとかではありません。
本当に何となく気が向いただけなのです。
いつものように五百羅漢達の前に置かれたベンチに腰を下ろし、ぼっと石仏達に目を向けていると、ある石仏が目に留まりました。
何とその石仏には顔がなかったのです。
若干うつむいたその顔は、のっぺりとして目も口もなく、鼻の位置だけが若干盛り上がっています。
その時、頭の中でもう既に他界した祖母の声が蘇ってきました。
「これらの石仏の中に、見る人とそっくりな像が必ずあると言われてるんだよ。そしてそれは必ずしも同じ像ではない。見る人の成長やその時の気持ちによって変わっていくんだ。」
いままで数えきれないくらいこの場所を訪れ、石仏を眺め、話し掛けたりもしてきましたが、こんな顔のない石仏はこれまで見たことがありません。
しかも私の正面、斜面の中腹の目につくところにあるのです。
きっとこれが今の私なんだ、そう感じました。
「ねえ、私はどうすればいいの?」
声に出してその石仏に問いかけてみるのですが、もちろん答えなど帰ってくるはずがありません。
ただ静かに俯いて立っているだけ。
昔は悲しそうな表情をした石仏を見て、私だけじゃない、そんな気持ちになっていたのですが、この表情のない石仏に対してはそんな気持ちに全くなれません。
だってそこにいるのは、おそらく私自身なんですから。
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それからしばらく経ったある日、あの優しかった非常勤の先生が辞めたという話が舞い込んできました。
同僚の女性の話によると、その先生が院長に対して私に対する態度を注意したそうなんです。
そのせいでクビになったと。
私のせいだと言わんばかりの意地の悪い言い方でした。
腕も良く、患者さんからも人気の高かった先生ですから、週に一回しか勤務しないこんな小さな病院を解雇されても先生自身の生活にはほとんど影響はないと思うのですが、私にとっては大問題でした。
職場でたった一人の味方を失ってしまったのです。
しかもその原因は私自身。
胸が張り裂けそうな悲しみと同時に、院長に対する激しい憎しみがこみ上げてきました。
小さい頃から祖母には、人を憎むことはいけないことだと教わってきましたが、この感情はどうにも抑えきれません。
長年に渡って心の奥底に封じ込めてきた感情が一気に噴き出しそうになります。
それでもこの気持ちを落ち着かせようと、仕事を終えると真っ直ぐお寺へと向かいました。
もう既に陽は沈みかけており、夕暮れ時の羅漢像達はいつもと違って見えます。
そしてベンチに座ると、あののっぺらぼうの石仏はやはり正面に居ました。
何とか気持ちを落ち着かせようと両手を合わせ、頭を垂れるのですが、どうしても院長の事が頭に浮かんで来てしまいます。
「あんな奴、死んでしまえ、死んでしまえ・・・・」
羅漢像を前にして、とんでもないことだと思うのですが、頭の中にはそれしか浮かんでこないのです。
これではいけない、今日はもう帰ろうと顔を上げました。
「ひっ・・・!」
顔を上げた正面にはあののっぺらぼうの石仏がいるはずでした。
しかし日没直後の薄闇の中に見えたその顔は、般若をもっと恐ろしくしたようなすさまじい形相だったのです。
「ぎゃ~!」
私は悲鳴をあげてその場から逃げ出しました。
そして家に帰るとそのまま自分の部屋に駆け込みました。
「どうしたの?夕飯は食べないの?」
母親の言葉に返事をすることも出来ません。
何が起こったのか、どうすればいいのか、何も解らずに頭から布団を被って、ガタガタと震えていました。
羅漢様に向かって、あんな恐ろしい呪いの言葉を吐くなんて。
何ということをしてしまったのだろう。
私は恐ろしさで朝まで一睡もできませんでした。
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しかし、その顔の意味するところを私は全く理解していなかったのです。
眠い目を擦りながら病院へ出勤すると、病院の前にはパトカーが停まっていました。
なんと昨夜遅く、院長が病院の駐車場に置いてある自分の車の横で頭から血を流して死んでいるのが発見されたのです。
出勤するとすぐに警察官に呼ばれ、昨夜の行動を聞かれました。
ひょっとすると、私が院長の事を良く思っていなかったことを誰かが警察に話したのかもしれません。
私は正直に、定時に病院を出てお寺にお参りした後、自宅に帰ったとありのままを話しました。
「仕事の帰りにお参りですか?」
警察官も多少不思議に思ったようですが、子供の頃からの単なる習慣だと言うと素直に納得してくれました。
実は、防犯カメラにその時の様子が映っていたのです。
駐車場で自分の車に乗り込もうとしていた院長の上に、突然大きな石のような物が落ちてきて頭を直撃したそうです。
映像からすると五十センチ四方ほどの大きさだったそうですが、現場にはそのような物は落ちておらず、防犯カメラにも誰かがそれを持ち去った様子は映っていなかったとのこと。
カメラがどのような角度でその大きな石のような物を捉えていたのかは判りませんが、大きさ的にはあの石仏とほぼ同じくらいです。
警察官からその話を聞いた私は、その場で固まってしまいました。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、お話を聞いて想像したら気分が悪くなって・・・」
訝しそうにそう尋ねてきた警察官にかろうじてそう答えると、警察官はすぐに開放してくれました。
もちろん病院はお休みになり、私も休憩室でしばらく気持ちを落ち着かせた後、病院を出ました。
やはり私が院長を呪い殺したということなのでしょうか。
あののっぺらぼうだった石仏は私自身だと思っていたのですから。
その石仏が般若のような恐ろしい顔をしていたのです。
そんなつもりはなかったのに。
どうしたらいいのか解らず、足はお寺へと向かっていました。
あの石仏を見れば、何か判るかもしれない。
見たい、見たくない、その葛藤の中、それでも私は五百羅漢像の柵の前に立っていました。
「な、な、なんで・・・私は殺してくれなんて頼んでない!」
なんとあの、のっぺらぼうだった石仏には、はっきりと顔がありました。
それはあの恐ろしい般若の顔ではなく、一見すると薄目を開けた穏やかな顔でした。
そしてその口元は片側だけ口角が上がり、してやったりという表情をしていたのです。
それだけではありません。
その肩口付近は赤黒く汚れているではないですか。
院長の血に違いありません。
「そんな・・・」
しかし心の奥底に、あの院長がいなくなってほっとした気持ちが全くないと言えば嘘になります。
あの石仏の表情は、そんな私の内面を映し出しているのでしょうか。
その石仏から目を離すことも出来ず、思考も停止したようになってじっと固まっていると不意に横から声を掛けられました。
「おや、郁子ちゃん(私)、今日はどうしたんだい?そんな顔して。」
いつの間にか、そこにはにこやかな笑みを浮かべて寺の住職が立っていました。
小さい頃からよく知っている住職です。私は夢中で起こった事を包み隠さず住職に話しました。
話さずにはいられなかったのです。
するとにこやかだった住職の顔が険しい表情に変わり、そして私を見つめていた視線を羅漢像達の方へ移しました。
「どの石仏の話をしているのかな?案内してくれるかい?」
住職はそう言うと柵の扉を開け、中へと入って行きます。
私は住職の前に立ち、石仏の並んだ急な斜面を登ると、あの石仏の前まで来ました。
「え?そんな。何で?」
そこにあったのは、うっすらと苔むした、縦長で何も彫られていないただの丸い石でした。
しかし位置からしてこれに間違いなく、周囲を見回してもそれらしい石仏は見当たりません。
「これかい?」
石を指差し問いかける住職に、私は黙って頷きました。
「私にはただの丸い石にしか見えないが、郁子ちゃんにはこれが羅漢の姿に見えるのかい?」
「見えていたんです。でも今は私にもただの石にしか見えません。」
「ふむ」
住職はその石の上にそっと手を置くと、目を閉じました。
そしてしばらくすると目を開け、私の顔を見ると大きくため息を吐いたのです。
「これはちょっと厄介かも知れんな。この石からは強い妖気を感じる。必ずしも悪しき気配ではないが、良いものでもない。ちょっと待っておれ。」
住職はそう言って本殿へと戻ると、何やら袋と木箱を持ってすぐに戻ってきました。
「とにかくまずはこの石に憑いている異形のものを封じ込める。」
住職はそう言うと持ってきたタワシで石の表面についた苔を落とし、そこに何やら梵字の書かれたお札を貼り付けました。
そして石の前で香を焚くとお経を唱え始めたのです。
私はどうすればいいのか解らないまま、住職の後ろで手を合わせてじっと石を見つめて立っていました。
すると住職がお経を唱え始めて十分程が経った頃でしょうか、私の目に見えていた石がまるで柔らかい粘土のように徐々に形を変えていくではないですか。
住職もそれに気付いているのか、お経を唱える声が一段と大きくなりました。
そしてその姿は羅漢ではなく、餓鬼のような姿に変わり、苦しそうな表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間には元の石の姿に戻っていました。
「これでよし。」
住職はそう言って立ち上がると注連縄を幾重にも石に巻き付け、そして私の方へ向き直りました。
「終わったよ。ではこれから郁子ちゃん自身のお祓いをしましょう。」
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住職の話によると、あの餓鬼のような姿をした怪異は大昔からあの石に宿っていたようだが、幼い頃からずっとあの場所に通っていた私に気を寄せていたのだろうということでした。
そして私が苦しみ、悩んでいる姿を見てそれを助けようとしただけなのだと。
「奴らのような魑魅魍魎の類だけでなく、時と場合によって神でさえ自分の思いの為に人の命を奪うことを躊躇わない。恐ろしいことじゃ。」
しかしそれは、私が望んだからということに他なりません。
つまりあの餓鬼の力を借りて院長を殺したのは私なのだということになります。
「忘れることじゃ。自分に害をなす人を憎むということは誰にもある事だからね。」
住職はそう言ってくれるのですが、やはりきれいさっぱり割り切ることなどできません。
そのせいでしょうか。
その夜、夢を見ました。
私の寝ている足元にあの餓鬼が立っているのです。
思わず悲鳴をあげそうになりましたが、あの餓鬼は住職によってあの場所に封じ込まれているはず。
これは夢なんだ、そう思いながらその餓鬼を見つめると、老人のようなその顔はとても悲しそうで、いまにも泣き出しそうです。
考えてみれば彼は私のことを思って院長を亡き者としたのに、結果として封印されてしまうことになってしまったのではないですか。
私の胸には彼に対して申し訳ない気持ちが湧きあがり、自然と涙が零れてきました。
それは、やはり夢だったのでしょう、気がつくと朝になっていました。
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私はどうすればいいのでしょうか。
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悩みに悩んだ末に私が出した結論。
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私は出家することにしました。
住職とも散々相談した上で決心しました。
相手が誰であれ、そしてそれを意図していなかったとはいえ、私は人をひとり呪い殺したのです。
その罪は償わなければなりません。
そして住職にお願いしてあのお寺に置いて貰い、あの石に封印されている餓鬼を私の命が続く限り供養していきたい、そう思っています。
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あの院長を弔う気など毛頭ありませんが。
…
◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
五百羅漢像群って、じっと見つめていると不思議な気分になりませんか?