長編9
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地下鉄の車内にて

お気に入りのパンプスに履き替え、会社を出て自宅アパートへと向かう地下鉄に乗り込んだのは、夜十時近くなってからだった。

特にブラックな会社という訳ではないが、経理という仕事柄、四半期毎の決算時期は毎回このくらいの帰宅時間になってしまうことが多い。

遅くまで残業したくはないが、でも帰りの電車が空いていることだけは助かる。

会社の最寄り駅はそれなりに大きなターミナル駅であり、この駅で降りる人も多い。

今日も降りる人が途切れるや否や、素早く電車に乗り込み何とか座席を確保できた。

比較的空いている車両を選んで乗っていることもあり、座席こそ埋まっているものの、立っている人はまばら。

周囲の乗客たちを見ると、そのほとんどが疲れた顔でスマホを手にしている。

ここから自宅アパートのある最寄り駅までは二十分程。

私はいつものようにバッグから文庫本を取り出した。

別にスマホが嫌いなわけではなく、これは昔からの習慣なのだ。

リズミカルな電車の走行音の中でしばらく本を読み進めていると、ふと嫌な感じがして本から顔を上げた。

気配のする方向を見ると、右斜め前のドアに肩で寄り掛かり立っている男性がいる。

三十歳位、長めの髪でまあまあイケメンだ。

やはりスマホを手にしており、メールなのだろうか、真剣な表情で熱心に何かを打ち込んでいる。

しかし私が気になったのはその男性自身ではない。

彼が寄りかかっているドアのガラス。

もちろん地下鉄なので窓の外は真っ暗で何も見えない。

その彼の肩の向こうに女の人がいるのだ。

もちろん走行中であり、ドアの外にいるはずはない。

一瞬ガラスに映っている姿かと思ったが、しかし彼の周りには誰もいない。

それなのにドアガラスには、彼の肩越しに手に持っているスマホを覗き込んでいる姿がはっきりと映っているのだ。

これは、間違いなくこの世の存在ではない。

実は子供の頃から時折そのようなモノが視えることがあった。

おそらく波長のようなものの関係で、視えたり視えなかったりするのだと思うが、それだけに視えていることを悟られるとまとわりつかれることも多い。

言葉の通じない外国で日本語が話せる人を見つけたようなものだ。

それに今回のあの幽霊はこれまでにない位にはっきりと見えている。

これは絶対に目を合わせてはいけない。

しかしあの女の人は、男性のスマホに集中しているようであり、まったく周囲に無頓着のようだ。

それでも用心するに越したことはない。

私はそちらが気になりながらも無理やり文庫本に目を落とし、目的の駅に到着すると顔を上げないようにしてそそくさと電車を降りたのだった。

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*********

その翌日が決算の最終日で、結局昨日と同じ時間になってしまった。

電車は昨日よりも空いており、それほど慌てなくても余裕で座ることが出来た。

座席に座り、ほっと一息ついて顔を上げると、斜め前に昨日の男性が座っているのに気がついた。

彼はいつもこの電車なのだろうか。今日もスマホを弄っている。

そしてあの幽霊が彼の座っている背後の窓から、今日は上半身を車内に突き出して彼の肩越しにスマホを覗き込んでいた。

長い髪が彼の肩に掛かっているのだが、彼は全く気付いていないようだ。

彼女は、そんなに彼のスマホの画面が気になるのだろうか。

ひょっとすると、彼の浮気を疑いスマホの画面を監視している生霊かもしれない。

疲れていたためか、そんなことをぼんやり考えながら、つい目をそらすのを忘れてしまっていた。

はっと気がつくと彼女がこちらを見ているではないか。

しまった、と思ったが時すでに遅し。

彼女はにゅるっと窓から抜け出すと宙を滑るように移動し、私の目の前に立った。

しかしその存在に周囲の人は全く気付いていない。

(私ガ視エルノネ・・・)

どこか寂し気な声で彼女が問いかけてきた。

空いているとはいえ車内にはそれなりに人がおり、他の人には見えていない幽霊に対して返事をするわけにはいかない。

私はシカトを決め込んだ。

文庫本を取り出して開くと、それに目を落として彼女を見ないようにした。

しかし自分のすぐ前にはっきりとその気配を感じ、文庫本の文字を目で追うが全く頭に入らない。

ところが、しばらくするとその気配がふっと消えた。

いなくなったのだろうか。

思わず顔を上げてみると、彼女は先程と同じように男性の背後でスマホを覗き込んでいた。

あの男性のスマホにかなり固執しているようだが、おかげで取り憑かれずに済んだみたい。

ほっとして再び文庫本に目を落としたが、もう電車は降りる駅に到着するところだった。

慌てて本をしまい、立ち上がったところで無意識に再び彼女の方へ視線を向けてしまった。

すると彼女はスマホを覗き込んだ姿勢のまま、顔をこちらに向けているではないか。

そして私と目が合うとニッと笑ったのだ。

これはマズいかも知れない。

私は慌てて目を逸らすと電車から駆け降りた。

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**********

とにかく明日からは定時で帰れるし、あの車両に乗るのはやめよう。

そう考えながら足早にアパートへ帰り、早々にベッドへ潜り込んだ。

しかし残念ながらやはり取り憑かれてしまったようだ。

夜中にふと目が覚めると、部屋の隅にあの女性が立っていた。

普通であれば悲鳴をあげて逃げるのかもしれないが、私にとっては初めての経験ではなく、彼女を見ても比較的落ち着いていた。

もちろん見た瞬間はドキッとしたが、それに続いて”やっぱり”という、どこか諦めに似た気持ちが湧いてきたのだ。

「あなた、憑いてきちゃったのね。」

私がそう声を掛けると、彼女はすっと滑るようにベッドへ近づいてきた。

(ゴメンナサイ、デモ私ノコトガ分ルノハ、アナタダケナノ。ヒロタカサンニモ分ラナイ・・・私ヲ助ケテ。)

「ヒロタカさんってあの電車の中でスマホを弄っていた人?」

彼女は小さく頷いた。

「それで私に何をして欲しいの?」

彼女は消え入りそうな声でゆっくりと話してくれた。

彼女の名はユキノさん。

ヒロタカさんとは付き合って五年、来年には結婚するはずだったが、ある日街中を歩いていた時、偶然彼がユキノさんの友人である女性と歩いているのを見掛けた。

ヒロタカさんにそれとなく聞いて見ると、お店で偶然会ったのだという。

ところが、それからしばらくして、その友人から彼と別れてくれと切り出されたのだ。

元来大人しく引っ込み思案のユキノさんは、彼に言い出すことも出来ず、彼の心が離れてしまったと思い込んで、散々悩んだ挙句に大量の睡眠薬を飲んで自殺してしまった。

しかしそれは大きな間違いだった。

実際は彼女の友人が勝手にしたことであり、ヒロタカさんに全くその気はなかった。

彼女の遺体の前で泣き叫ぶヒロタカさんの姿を霊体となって見ることになり、自分が大きな過ちを犯してしまったことに気づいたが、もう既に後の祭りだった。

そして、ヒロタカさんはその時から毎日、スマホで彼女のアカウントにメッセージを送り続けているのだ。

決して既読が付くことのない一方通行のメッセージを。

そこにはその日あったことだけでなく、昔の思い出、そして彼のユキノさんに対する変わらぬ思いが綴られているという。

そしてユキノさんは、彼女のことを想いながらメッセージを打ち続ける彼の傍に吸い寄せられてしまうのだと言った。

(メッセージヲ送ルノヲヤメサセテ欲シイ)

彼の傍を離れたい訳ではないが、勝手に死んだ自分のことなど早く忘れて幸せになって欲しいと。

「わかった。自信は無いけど話してみるね。」

全く見知らぬ他人だが、自分以外に頼る人がないのであれば仕方がない。

一肌脱ごう。

ヒロタカさんはまあまあイケメンだし。

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**********

翌日、仕事は終わっていたのだが、わざと遅くまで会社に残るとまたあの電車に乗った。

ヒロタカさんは、座席に座っていつものようにスマホを弄っている。

ユキノさんへメッセージを送っているのだろう。

ユキノさんも昨日と同じように、彼の肩に顎を乗せんばかりに上体を窓ガラスから突き出してスマホの画面を覗き込んでいた。

そして私が乗ってきたことに気がつくと、すがるような眼差しを向けてきた。

私はユキノさんに向かって軽く頷くとヒロタカさんの前に立った。

「あの、ヒロタカさんですよね?」

すると彼は顔を上げて私を見ると、怪訝そうな表情を浮かべた。

まあ、電車の中で見知らぬ人からいきなり名指しで声を掛けられたのだから、当然の反応だろう。

「あ、そうですけど、失礼ですがどなたですか?」

「あの、ユキノさんの事でちょっとお話があるんですけれど、少しお時間頂けませんか?」

「雪乃のことで?あなた誰ですか?」

さすがに死んだ恋人の名前まで出されては、無下には出来なかったのだろう。

私達は次の駅で電車を降り、ホームのベンチに座った。

「まず、あなたが誰なのか教えて貰えますか?」

ヒロタカさんは、怪訝そうな表情を崩さず、座ると同時に同じ質問を投げかけてきた。

「いえ、偶然同じ電車に乗り合わせただけの、通りすがりのOLです。」

その言葉にヒロタカさんは苦笑いを浮かべた。

「その通りすがりのOLさんが何故僕の名前や雪乃の事を?」

「昨日の夜、ユキノさんに会って話をしました。」

「えっ・・・冗談はやめてください。雪乃は半年も前に死んでいるんです。」

浮かべていた苦笑いが瞬時に消え、今度はやや怒ったような表情に変わった。解りやすい人だ。

「そう、死んだ雪乃さんにあなたが毎日メッセージを送りつけるから彼女は成仏できずにあなたの傍を彷徨っているんです。」

私は一昨日、そして昨日の出来事を彼に話した。

「だから、彼女にメッセージを送るのをやめるよう貴方に忠告するために声を掛けさせて貰いました。私の言いたいことはそれだけです。」

だが実際にはどうなのだろう。

彼には成仏できないと言ったが、それは言葉のアヤで、そもそも自死した者は成仏することは出来ないと聞いている。

もし彼がメッセージを送るのをやめたら、彼女はどうなるのだろう。別のどこかを彷徨うことになるのだろうか。

まあ、私には関係ない。

次の電車が到着するアナウンスを聞いて私は立ち上がった。

「それじゃ、私はこれで。あ、同じ方向の電車でしたね。じゃあ帰りましょうか。」

「教えてくれ。雪乃はいまもここにいるのか?」

私はちらっと彼の斜め後ろに視線を向けた。

「そこにいますよ。とっても悲しそうな顔をして。」

ヒロタカさんは、慌ててそちらを向くと手を伸ばした。

「見えない、触れない。何で僕には見えないんだ。僕らに関係のない通りすがりのOLさんには見えるのに。」

すっかり私はその名前になってしまったようだ。

まあムキになって訂正することもない。私は彼と一緒にそのまま到着した電車に乗った。

もちろん雪乃さんも一緒に。

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*********

そしてそれから三か月が経ち、また決算期がやってきた。

あれ以来、雪乃さんが私のアパートに現れることもなく、電車で見かけることもなかった。

久しぶりにあの十時前の電車に乗り込むと、目の前にヒロタカさんが立っていた。

「やっと逢えた。お礼が言いたくて、ずっとこの時間帯の電車を探していたんですよ。」

雪乃さんのことは吹っ切れたのだろうか。先日の時よりも表情が明るい気がする。

「それで、お礼がてら食事でも一緒に如何かと思って。今日はもうこんな時間なので、日を改めてでもいいんですが。」

これはデートのお誘いだと思っていいのだろうか。

ヒロタカさんは、雪乃さんがベタ惚れするだけあって、見た目も良いし性格も良さそうだ。

でも・・・

「ごめんなさい。お気持ちは嬉しいんですけど、ご一緒できません。」

「え?どうしてですか?」

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「だってあなたの後ろで雪乃さんが物凄く怖い顔して私を睨んでいるんですもの。」

◇◇◇ FIN

Concrete
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