「あ~つまんない。毎日やってらんないわ。」
紀代子はそうぼやきながら、いつものように会社の事務所横にあるトイレの一番奥にある個室へ入った。
まだ就業時間中だが、気分転換だと自分に言い訳しながらサボりに来たのだ。
個室に籠ると便座に腰掛け、ポケットからスマホを取り出してイヤホンを耳に押し込む。
こうしてしばらく笑いを誘うような短編動画を見ながら、ほんの短時間だが仕事のストレスを解消するのが最近のお決まりだ。
「く、く、くっ・・・」
周りに気づかれないように笑いをかみ殺しながら、動画に熱中し始めた時だった。
パチッ
不意にトイレの照明が消えた。
このトイレの照明は数か月前にセンサー式が導入され、しばらく動く人の気配がないと自動的に消えてしまうのだ。
「あ~もう、ウザイなあ。儲かってる会社なんだから、こんなにチマチマ照明を消さなくたっていいじゃない。」
彼女にはSDG’sなど、自分のささやかな楽しみの前では関係ないのだ。
紀代子は便座に座ったまま、片手を上げて左右に振った。
こうして天井に付いているセンサーに感知させればまた照明は点く。
はずだった。
期待に反していくら手を振っても照明は点かない。
「え~っ、停電ってこと?」
しかし、個室のドアの隙間からはうっすらと光が入ってくる。トイレの外の廊下にある照明は点いているようだ。
センサーの故障だろうか。
その時コツコツと足音がして、誰かがトイレに入ってきた気配がした。
よかった、これで照明が点くと紀代子はほっとしたが、人の動く気配はするのに照明が点かない。
やはりセンサーが故障しているみたいだ。
コンコン
いきなり紀代子の入っている個室のドアがノックされた。
暗い為にドアのロック表示が赤になっているのに気がつかないのだろうか。
「入ってま~す。」
思わず声で返したが、何の反応もない。
他の個室は空いているはずだが、そちらへ移動する気配もない。
コンコン
間を置いて再びドアがノックされた。
(何この人、何だか気持ち悪い。)
そう思いながら、今度はドアを内側からノックして返した。
すると今度は間髪を入れずに、激しく繰り返しノックしてくるではないか。
コンコンコンコンコンコン
「はい!今出ますからちょっと待ってください!」
紀代子はかなりムカついたが、ここで喧嘩を売っても仕方がない。
ぐっとこらえて、大人の返事を返した。
そもそも用を足していたわけではない。紀代子はイヤホンを外すとそのまま立ち上がってスマホをポケットにしまった。
コンコンコンコンコンコン
「はいはい、今出ますよ!」
ロックを外し、腹立ちまぎれに勢い良くドアを開けると、薄暗い中、すぐ目の前に青白い顔をした事務服姿の女性が立っていた。
基本的にこのトイレは社内の人間以外使用できないはずだが、紀代子はその女性に見覚えが無かった。
彼女はじっと紀代子の顔を見ているようだが、どこか焦点が合っていない。
しかしその紀代子の動きに反応したのだろう、突然トイレの照明が点いた。
「えっ?」
突然の光にほんの一瞬目の前が真っ白になったが、すぐにそれが収まるとそこには誰もいなかった。
たった今、目の前に女性が立っていたはず。
恐る恐る個室から出てトイレの中を見回してみたがやはり誰もいない。
目の錯覚だったのだろうか。
そんなはずはない。
その時だった。
いきなり背後でバタンとドアが閉まる音が聞こえ、驚いて振り返るとたった今紀代子が出てきた個室のドアが閉じている。
そしてガチャンと音がして、ドアのロック表示が青から赤に変わったのだ。
今、個室に入ったのは誰だったのかなど確かめようとする気など起こるはずがない。
そもそも誰もいなかったのだ。
「ひ、ひえっ~」
紀代子は、突拍子もない悲鳴をあげてトイレから飛び出していった。
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「まじ?」
トイレから席に戻った紀代子は半泣きになりながら、同僚の友香に今トイレで起こったことを話した。
「でも、今まで会社のトイレにそんな幽霊が出るなんて聞いた事ないわよ。」
「嘘じゃないもん。本当に出たんだよ。」
その話はあっという間に社内中へと広がった。
実際の所、社内でそのトイレを利用する女性社員の数は多くない。
それでも、誰も入っていないはずのトイレで一番奥の個室のドアロック表示が赤になっていたことがあった、と言い出す者が数名いたのだ。
そして関心を示す女性社員が数人でその個室に籠ってみたが、あの幽霊と思しき女性は現れなかった。
段々と噂は紀代子の作り話ではないかという雰囲気が漂い始めた頃、ひとりの気丈な女性、雅美がひとりで奥の個室に籠ってみると言い出した。
雅美は四十代で、女性社員の中ではベテランの部類に入り、女子トイレでそんな噂がはびこることを不愉快に感じて自らそんな事実が無いことを確かめようとしたのだ。
もちろん彼女の二十年を超えるこの事務所でのキャリアの中でそんな話が出ていなかったことが、大きな自信になっている。
雅美は颯爽とひとりで女子トイレに入り、数人の女子社員がトイレの外でそれを見守っていた。
彼女が入ってから十分近くが経過しただろうか、ドアに設けられている摺りガラスの小窓からトイレの照明が消えたのが分った。
そしてそれからしばらくした時だった。
「ぎゃ~っ!」
トイレの中から凄まじい悲鳴が聞こえた。
外で待っていた女子社員達はその声に驚いたが、何が起こったのか、どうしたらいいのか、固まったままドアを見つめている。
「どうした!何があった!」
今の悲鳴を聞きつけたのだろう、ふたりの男性社員が事務所から飛び出してきた。
「雅美さんが・・・あの幽霊の噂を確かめにひとりでトイレに入ったんです。そしたら…」
「なんだと!」
さすがに緊急事態だと判断したのだろう、ふたりの男性社員は躊躇することなく女子トイレの中へ飛び込んだ。
するとトイレの一番奥で雅美が気を失い、壁に寄り掛かるように倒れ込んでいた。
「おい、大丈夫か?」
駆け寄ったふたりは、彼女が単に気を失っているだけで大きな怪我などが無いことに安心したが、とにかくここに置いておくわけにはいかないと、両脇から雅美の肩を担いでトイレから運び出そうとした。
「ちょっと、主任、この個室、誰かいます…」
男性のひとりがそう言ってすぐ横にある個室のドアを指差した。
ドアのロック表示は赤であり、誰かが中にいることを示している。
「おかしいな。ちょっと頼む。」
主任と呼ばれた男性は、雅美をもうひとりの男性に預けるとドアの前に立ち、ドアをノックした。
コンコンコンコン
「おい、誰か入っているのか?おい!」
返事はなく、主任はもう一度繰り返した。
するとその途端だった。
ガチャッという音と共にロックが赤から青に変わり、主任がノックする手の勢いで押したためだろうか、ドアがゆっくりと内側に開いていく。
中には誰もいなかった。
そしてその瞬間、目に見えない何かが一陣の風のように個室から外へと出て行くのが感じられた。
ふたりは顔を見合わせると、雅美を担いでばたばたと逃げるようにトイレから出て行った。
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事務所のソファに寝かされ、程なく意識を取り戻した雅美は、心配そうに取り囲んで彼女を見ていた人達の顔を見回した。
「あ、あれは、きみちゃんなの、篠原君代ちゃんの幽霊なのよ。」
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篠原君代は、今から二十年近く前にこの会社に勤めていたOLだった。
おっとりした地味な性格で、はっきり言って仕事の出来はあまり良くなかった。
そんな彼女は性格の悪い上司の目の上のコブだったのだろう、その上司は彼女が何も反論しないのをいいことに、今であれば、パワハラ、モラハラで訴えられてもおかしくないような言動で四六時中怒鳴りつけていた。
そして彼女はその度にあの一番奥の個室に籠って泣いていたのだ。
女子トイレの中が、その上司から逃げられる唯一の場所のはずだった。
しかしある日その上司は女子トイレの中まで踏み込んできて彼女が籠っている個室のドアを激しく叩き、更に酷い言葉を投げつけてきたのだ。
もう逃げ場がないと思い込んだ彼女は、そのまま屋上へ駆けあがってそこから身を投げてしまった。
普段からその上司の態度を苦々しく思っていた周囲は、彼を擁護するような証言を全くせず、すぐに彼は彼女の自殺の責任を取らされて懲戒解雇となった。
「きみちゃんはあれからもずっとあの個室に籠っていたのね。あの時、私は慰めの言葉を掛けることしかできなかった。」
雅美はそう言って、沈痛な面持ちで涙を浮かべた。
「でも、何故そんな昔の出来事が今になって?」
雅美を取り囲んでいた紀代子がそう問いかけた。
「おそらく、ずっと前から篠原はあそこにいるんだよ。」
先程トイレから雅美を連れ出した主任がそう呟いた。
年齢からして彼も篠原君代が自殺した当時を知っているのだろう。
「ただ、これまで勤務時間内は点けっぱなしだったトイレの照明が、数か月前につけたセンサーで消えるようになって、暗闇の中でしか見えない彼女の姿が認識できるようになったということじゃないかな。」
主任の言葉に誰も頷かなかったが、反論する者もなかった。
女性達は取り敢えずセンサーを切り、トイレの照明を常時点灯にするのに合わせて、一番奥の個室を使用禁止として様子を見ることにした。
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しかしその二日後、あの雅美を連れ出した主任が死んだ。
会社のビルの屋上から身を投げたのだ。
「篠原…篠原…何で、なんで俺なんだ…」
主任は仕事中にいきなり立ち上がり、そう呟くと突然屋上に駆け上がり、手すりを乗り越えて地上へと落下していったのだ。
周囲の人達には、仕事でもプライベートでも彼が自殺する理由など皆目見当がつかなかった。
ただ飛び降りる直前の彼のその言葉から、何かしら篠原君代の霊が関与しているのではないかと想像されるだけなのだ。
しかし篠原君代が自殺した時、別の部署にいた彼は全く関わっていなかったと聞いている。
彼自身の台詞ではないが、何故主任だったのか。
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「紀代子、私、思うんだけどね。」
主任の葬儀が終わった翌日、休憩時間に友香が紀代子にぼそっと話し掛けてきた。
「主任は、雅美さんを助けに行った時、その嫌だった上司と同じ事をしてしまったんだと思うの。」
紀代子は友香が何を言い出したのか理解できなかった。
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「同じ事?」
「そう、個室に籠った彼女に向かって、ドアを何度もノックして声を掛けた…」
それで彼女の怒りを買ったということなのか。
主任は何も悪いことをしていないのに…
あまりに不条理な…
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しかし篠原君代の霊にとって、個室の中で聞く激しいノック音は彼女の魂を怒りで沸騰させるトリガーになってしまっているに違いない。
…
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紀代子は、一番奥の個室のドアに張ってある『使用禁止』の張り紙に赤いマジックで書き足した。
『ノック厳禁』
…
◇◇◇ FIN
作者天虚空蔵
これまでチマチマと百篇を超えるお話を投稿してきましたが、ふと気がついて見ると、怖話の超定番であるトイレの幽霊を主題にした話をひとつも書いていませんでした。
舞台設定上ちらっとトイレが出てくることはありましたが。
でも定番物って逆に難しいですよね。
どうしても何処かで聞いた事のあるような話になりがちで。
今回は幽霊が何故その場所に居付くのかと言うところでちょっと知恵を絞ってみました。
先日はエレベーター物に挑戦して挫折しましたが (笑)