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中編5
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トリビア怪談

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 雲は液体である。

 核となる微細な浮遊物へ水分子が集結して液体としての水となり、それらがさらに集合体として上昇気流に浮きながら光を乱反射することで雲として私達の目に映っている。

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 ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。

 街道沿いを流す、客の少ない深夜。

 このタクシー会社に就職してからもう20年にもなるけれど、いわゆる世間でよく聞く幽霊騒ぎというものはほぼ我々の作り話だと知っている。

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 たとえば泥酔した客が後部座席で失禁したとする。シートが汚れてしまう。会社にもよるけれど、客が車を汚した場合、まず当然ながら運転手がその掃除をして、さらに場合によってはシートカバーなどの弁償をすることになる。

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 ところが「客はいなかった。幽霊のせいだ」と申告すると、誰の責任なのか会社側も追求できなくなる。幽霊なんていない、という証明をすることが出来ないかぎり、賠償責任を負わせることが出来ないからだ。悪魔の証明になる。

 とはいえそれも昔の話で、今では車内録画やGPS追跡が当たり前なので必然的に、タクシーにおける幽霊譚は消えかけている。

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 立川駅を過ぎて昭和記念公園に近づくと、ひとりの女性が傘も差さずに手を上げている。長い黒髪を顔に垂らして、真っ白なワンピース。

「おっと、幽霊かな?」と思ったけれど、もし生きている人間ならこの雨の中、無視するわけにもいかない。

 停車して、乗ってもらう。

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「どちらへ?」

「シロアリってゴキブリの仲間らしいよ…」

「……なんですか?」

「八王子城跡までお願い」

「ちょっと料金かかりますがよろしいですね」

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立川から高尾方面へ、一般道を使い深夜の雨を跳ねていく。

うしろの女性の荒い息が聴こえる。

「ねぇ、どっちだと思う? あたし、幽霊?」

「さぁどうですかね。なんとなくそう見えますけども、たぶん生きてますよ」

「じゃぁさ、生きてるってどういうこと?」

「たとえば、心臓が動いているとか、呼吸をしているとか」

「えっと、脈拍は無いけど、ほら、呼吸はしてるよ?」

「ちょっと珍しいけれど、死んでますね」

「マジかー。あ、あれ見て!」

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彼女が指さす東の空を見ると、複数の光の玉がジグザグに高速移動していた。

「あんあいでんてぃふぃど ふらいんぐ おぶじぇくと じゃん」

「え、なんですか?」

「Unidentified Flying Objectだよ。UFOめっちゃ飛んでるじゃん」

「あー、そう言うんですねUFOって。

それはもうどうでもいいんですけれども、元八のほうから城趾へ向かっていいですか?」

「おっけー」

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トンネルを抜けて、そろそろ八王子城跡だ。

後部座席の女性はずぅっと車窓から、暗い夜道を眺めている。

そうしてこちらへ見向きもせずに、何かを言い続けている。

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「ねぇ運転手さん。

あたし、死んでるんだよね」

「たぶんそうだと思いますよ」

「でもこうやって話せてるでしょ?

もっかい教えてよ。

生きてるって何?

死んだこともないくせに、どうして

生きる ことと 死ぬ ことの違いがわかるの?」

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「まぁ言われてみりゃあ確かにそうですね。

いったん死んでみても良いですか?

上手く事故れば労災も下りるかもしれないし、

ちょうど有名な心霊スポットだから、家族にも言い訳ができますね」

「え、家族がいるの?

じゃあ死んじゃだめじゃない?」

「あなたはどうなんですか?

どういうふうに死んだのか、覚えていませんか?」

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「……運転手さん、お願いがあるんだけど。

これから吉祥寺まで行ける?」

「今夜は無理かな。明日の昼、立川の〇〇水産の前で待っててくれる?

じゃ、ここで降りてください。

できたら明日、今回分の料金も持ってきてくださいね」

「おっけー」

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 翌日、立川駅へ歩いていくと、昨日の彼女がふわりと待っていた。

 幽霊と連れ立って出掛けるのは初めてなので少し緊張していて、Suicaのチャージを忘れていて改札に引っかかった。幽霊の彼女は、その私を笑いながらすぅっとすりぬけて行った。

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 彼女の希望で中央線から乗り換えて京王井の頭線に揺られながら、アイリスジャポニカという花の話を聞いた。彼女が好きなユリ科の「シャガ」という花の英名が「日本の虹」

でもシャガの原産地は中国。

「綺麗な名前なんですね」と言うと、

「でもね、たとえ バラの花が別の名前でも、その可愛い香りはおんなじでしょ」

と呟いて、少しのあいだ、新宿駅で買ったばかりの焼き栗を剥いていた。

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吉祥寺で降りて、井の頭公園に着いて、ソバ屋のテラス席でザル蕎麦を食った。

瓶ビールを小さなコップに注いでいたら、彼女が語り始めた。

「ここに、まだいるの。

あたしが死んだ朝は、9月4日、ちょうど17歳の誕生日だったと思う。

『落穂拾い』のミレーと『オフィーリア』のジョン・エヴァレット・ミレィが全然違う画家であると知った翌朝のことだったと思うんだけど

バラバラにされて、いくつかのゴミ箱に捨てられて。

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「でもね、その前の日には、好きな子とキスしたんだよ。

あんなにも優しく誰かに見つめられたことは、初めて。

違うかも、言い方が違う。

こんなにも優しく誰かに見つめられていたんだ、これまでの人生で、

自分がどれだけ大切にされてきたのか、わかったんだよ。

そうしてこれから自分が、どれだけの人たちを優しく見つめることができるのか、

それはどんなに楽しいことなんだろうって、

とても、ほんとうにとても、よくわかったんだよ。

愛すること、それが、どんなことだか、

わかったその日に殺された」

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まだ秋の始まり。

樹と樹との葉と葉とは、かさりかさりと乾きながら光を唄っている。

西に沈む陽は私達をわけも無く照らして、そうしてぬくもりだけを残していく。

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「ねぇ、運転手さん……知りたいことがあるんだけどさ」

「なんですか? ていうか昨日の料金まだ頂いてないんですが」

「ねぇ、運転手さん…あたしって、どうして殺されないといけなかったの?

生きているって、なんなの?

こんなにもあたしは今、生きてるのに、殺されてるってどういうことなの?」

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「付き合ってた彼の住所とか、わかる? とりあえず今から行ってみましょう」

「八王子のほうだよ。お城の近く。だから最初にお願いしたの」

「わかりました。じゃあいったん立川営業所に寄りましょう。

料金はその彼にもらいます」

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 八王子の山奥で車を下りると、彼女の影響なのか体がとてもダルくなった。

 彼氏が住んでいるというアパートまで彼女と一緒に歩きながら、肩がどんどん重くなっていく。

「どうして」「どうして」という声がずぅっと耳元で聞こえていた。

 彼氏の住んでいる201号室の前に到着。

 玄関ドアにノックしようとすると、

「もぅいいよ」と、彼女の声が聞こえた。

 外付けのガスメーターの枠に、普通のビニール傘と、淡い青の小さなお洒落な傘とがふたつ、並んでいる、

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「ひとりじゃないってことだから

もう、いいよ

あたしじゃなくていいんだよ

もう、わかった」

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振り向くと彼女はもう、いなかった。

仕方がないので、料金は”幽霊のせい”にしておいた。

 

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