千夏は、誰も居ない部屋の中で独り、目を覚ました。起き上がってみると、腰が痛い。こんな冷たいフローリングの上に放って置かれたからだろう。
将来腰痛持ちになったらどうしてくれる。コンチクショウ。
悪態を吐きながら辺りを見渡す。どうやら、さっきの部屋から動かされていないらしい。
いきなり現れて抱き締めて凍らせた挙げ句に放置とは、どういうことなのだろう。
「…………春美。」
口をついて出たのは親友の名前だ。薄くぼんやりとした意識の中で、彼女の声を最後に聞いた。
『待って!千夏は…………千夏は渡さない!!』
あの時、目はどうしても開けられなかったし、身体も動かなかったが、意識そのものが無かった訳ではない。けれど、彼女が助けを呼びに行ってくれたことは分かった。そして、戻って来て、あの何だか訳分からん白い女から守ろうとしていてくれたことも。右手に手袋の感触がしたから、きっと連れ戻そうとしてくれたのだろう。
まぁ、直後にアホッキーが何か叫びながら乱入して、結局彼女は連れて行かれてしまったのだが。そして私は見捨てられ、この屋敷に残されたのだが。
けれど、あのアホにしては比較的まともな判断だったとも思う。あんな化物に春美が立ち向かったところで勝算は無いし、あの時の私は生死不明の状態だったのだから。寧ろ、よくぞ春美を連れて逃げてくれたと言えよう。よくやったアホ。グッジョブアホ。ナイスアホ。
……………………とは言えども。
「どうしたもんかなぁ。」
二人をこれから追うのは、恐らく不可能だろう。手掛かりも無いし、下手をすれば折角助かった命を無駄にしかねない。
「ふむ。」
窓の外を見ると、雪はいつの間にか止んでいた。これならばあの二人もある程度は大丈夫だろう。
懐からスマートフォンを取り出すと、中央に大きな穴が開けられている。先々月買い換えたばかりだったのに、なんてこったい。
「連絡が取れないように…………か。」
電波の届かない場所ならば、こんなことをする必要は無い。即ち、此処は電波の通じる場所なのだろう。素晴らしきかな電脳文明。二人が無事ならば、スマホを使って助けを求めることも可能かもしれない。
ならば、私はどうするか。考える必要はない。端から答えは一つだ。
「春美を守る。」
口に出して宣言し、思わず苦笑した。私、さっきから春美のことしか考えてない。
「けど、いいよね。」
今は独りだ。体裁を気にすることは無い。
…………そう、私は春美のことしか考えていない。それ以外はどうでもいい。自分の身でさえも。そう思って生きていたのだ、ずっとずっと。
separator
幼い頃は、それなりに自分の生い立ちにコンプレックスを感じていた。
日本有数の大企業の令嬢。有り余る金とコネ。両親からの愛情も、十二分に受けてきた。私ほど恵まれた環境で育てられた子供も、珍しいと思える程に。けれど、家の中でどんなに幸せでも、一歩外へ出るだけで世界は違った。
《金持ちだから》という理由だけで私を避け、憎み、疎む人達。石を投げ付ける人、囁かれる陰口。そして、擦り寄って来る人間は、欲に目が眩んだ者ばかり。私自身を見てくれる人は誰も居ない。けれど、こんなに恵まれているのだからと諦めて、もっと不幸な人もいるのだと飲み込んで、勝手に外面だけをどんどん完璧にしていった。
明るくて、外交的で、太っ腹で、優しい。いつの間にかそんな自分が出来上がっていて、それが何よりも嫌だった。本当の私は根暗で、内向的で、せせこましくて、狡いのに。ただでさえ疎まれて然るべき人間なのに、その上で皆を裏切りながら生きているのが、堪らなく嫌だった。
私を外から守る為に作った壁は、私を外から隔離するものに他ならなかった。気付いた時には、もう壊せなくなっていた。高く、強固で、それがある限り、私は永遠に誰とも心から笑うことは出来ない。そう思っていた。
全部、過去形の表現だ。彼女が現れたから。
nextpage
彼女との出逢いについて、敢えて私は思い出さないよう、意識しないようにしている。昔は昔、今は今だ。大切なのは、今、私は彼女の親友だということ。そして、どんなことが有ろうと、彼女は幸せにならねばならないということ。
「取り敢えずは、この館を探索しようかな。」
迎えに来てくれるという、望みも込めて。
うん、と力を込めて小さく頷く。あと、トイレを探さなくては。そろそろ膀胱が限界。
そして、私達の身に何が起こっているのか。あの雪女は一体何だったのか。それも調べる必要が有る。対抗策も。
「さて、行こうか。」
頭の隅を、遠い夏の日の記憶が過る。
下りていく遮断機。飛び込もうとする私。掴まれた手。その暖かさと、優しさ。
失わせる訳にはいかない。
千夏は静かに立ち上がり、ドアを開けた。
separator
トイレを見付け、無事用を済ませると(水は流れなかったが、この際甘んじるべきであろう)、真っ先にさっきまでいた暖炉の有る部屋へと向かった。
「冬弥、無事?」
恐る恐る部屋のドアを開けると、誰も居ない。彼も逃げたか捕まったかしたのだろう。考えても仕方が無い。そして、正直興味も無い。今は自分に出来ることをするのみだ。
「…………それにしても、見れば見るほど洋風の屋敷。」
雪女というより、雪の女王が住んでいそうである。本当に、これが噂話の屋敷なのだろうか。そもそも、雪女が住んでいる家なのに、どうして暖炉が有るのだろう。体が溶けてしまわないのだろうか。シャワーなど浴びようものなら、一緒に排水溝に流されてしまう気がするのだが。
というか、実は此処は只の空き家か何かで、さっきの雪女は…………いや、しかし、私達はまるで導かれるようにこの屋敷に来て、屋敷に着いて一時間と経たない内に、奴は私に襲い掛かってきた。偶然にしては、出来過ぎている。
「考えれば考える程謎だらけ。」
大きな溜め息を一つ吐き、千夏は何か使えそうな物が無いか、辺りを物色し始めた。
separator
厨房で見付けた刺身包丁、薪置き場に有った手斧とバール。古ぼけた箱に入れられたマッチ数本、少なくとも一階に有った使えそうな物は、それぐらいだった。
「次は二階か。」
切れ味の悪そうな包丁は捨て、利き手である右の手に手斧、もう片手にバールを握り、階段を上がる。
「それにしても、この家、本当に人の住んでた気配が無いなぁ。」
埃でまみれた階段は、一段一段登る度に黒々とした靴の跡が残った。
「何か良いもの、有るといいんだけど。」
呟いてみるも、勿論誰からも返事は無く、辺りには只コツコツと靴の音のみが響いていた。
separator
千夏は最終的に、一枚のドアの前に立った。
「残るは此処だけか。」
二階の一番奥の部屋、分厚くて重々しい扉達の中で、そのドアだけが妙に薄っぺらかった。けれど、同じように年月を経ている様子ではある。後から取り付けた訳ではなさそうだ。
「執務室か何かかな。」
ドアノブに手をかけて回そうとすると、回す途中で抵抗があった。鍵が掛かっている。
「この部屋だけ…………?」
他の部屋は軒並み開いていたのに、此処だけ施錠してある。明らかに怪しい。
…………これがゲーム等なら、きっと鍵を探す展開になるのだろう。然し、今、私の手には手斧とバールが有る。そして、鍵を探すのは正直めんどい。ならば、するべきことは一つだ。私は一旦バールを床に置き、手斧を両手を使って思い切り振りかぶった。
separator
破壊されたドアの向こう側を見て、私は絶句した。
天蓋付きベッドと、小さな机だけが置かれた部屋。その壁一面に、恐らく新聞のものらしい切り抜きや、走り書きのメモ、写真がびっしりと貼られていたのだ。
「何…………これ。」
古ぼけた物が殆どで、文字は掠れて日に焼けている。写真もそうだ。随分と昔の物らしい。
写真は壁から外し、辛うじて読めそうな切り抜きとメモからは単語を浚ってみる。
《温泉発見》《観光》《バス開通》《雪光財閥ホテル営業へ》
雪光…………今でも有名な製薬会社だ。財閥解体が行われたのは1945年。成る程、戦前の記事なのか。古い筈だ。
《一年と経たず雪光財閥ホテル閉業》《製薬業へ転身か》
どうやら観光事業には失敗したらしい。それにしても、どうして突然製薬業を始めようと思ったのか。
今度は古そうなメモを読む。
《***軍*命*****罌***薬**》《阿***》《**新種****青***粟ノ***》
所々滲んでしまっている。けれど、話が何やらきな臭くなって来たのは分かった。僅かに緊張しながら、次の切り抜きへと手を伸ばす。
《製薬会社に蔓延る汚染、社員が新たな麻薬製造か》《モルヒネの流出》《女性社員数名がモルモットに》《社員の **** さん(32)が未だ意識不明の昏睡状態》《引き裂かれた幸せ 新婚女性社員を襲った魔の手》《大手製薬会社の闇!昏睡状態の社員が消えた!!》
割かし最近の記事だ。それでも十数年前の物だが。…………確か、まだ未解決の事件だった筈。でも、どうしてこんな記事が有るのか。雪女と雪光製薬、何か関係しているのだろうか。
「もう手に負えなくなってきたかも…………ん?」
一枚だけやたら新しい切り抜きが有る。
《女児行方不明 誘拐か?》
「行方不明…………?」
今から丁度十年前の記事だ。
《八月十日未明、幸姉地方の別荘にて宿泊中だった 江夏 葵 ちゃん(4)が、行方不明となった。連れ去られた現場には何故か雪が残っており、警察は誘拐事件との見解を示し、捜索を…………》
「幸姉…………って、ユキアネだよね。此処、こんな字になるんだ。てっきり、降る雪の方かと思ってた。」
現場の雪。彼女ももしかして、雪女に拐われたのかも知れない。まだ見ぬ少女に僅かな親近感を感じながら、文字列をなぞる。江夏と千夏。名前まで似ている。
「さて、次は…………メモだ。あ、結構新しい。」
どうやら、最初に見たメモとは書いた人物も違うようだ。几帳面そうな細い文字。
《呪ってやる》《殺してやる》
最初からまた穏やかじゃない。
《子供も産めず死ぬ》《この身が果てても呪う》《殺す》《こんな身体になったのも、あいつらの所為だ》《子供が欲しい》《独りは寂しい》《お腹の子を返せ》《私の子を返せ》《返せ》
どうやら、書いた人物は妊婦だったらしい。死産か何かしたのだろう。
《山神様》《御告げが来た》《見付けた》
山神様?見付けた…………?一体何を
《私の子が帰ってきた》《葵》《幸せ》《また御告げが》《もっと》《もっと》
葵。先程の少女の名前だ。背中をいく筋も冷たい汗が滑り落ちる。
「これってどういう……………………」
separator
「起きたのね。」
後ろから突然、楽しげな女の声がした。振り向くと、忘れたくても忘れられないような美貌。
雪女が、立っていた。
「元気になって良かった…………。前回みたいに死んじゃったのかと心配していたの。ほら、帰りましょう。」
此方に伸ばされる手を、後ろに飛び退いてかわす。
前回?さっき抱き締められたときのことだろうか。なんだか言い回しが可笑しい気もするが…………。どちらにせよ、ピンチなことには変わりない。
…………バールは金属だ。冷気が伝わる。柄が木で出来ている斧の方が、まだ勝機が有るか。両手で柄を握り直し、手斧を構える。此処で、もし私が勝てば、もう春美達は安全だ。
クスクスと雪女が笑う。
「なぁに?反抗期かしら?」
足元に冷たい空気が溜まっていくのが分かった。肌が強烈な冷気でピリピリと痛む。目を開けるのが辛くなって、睫毛が凍るのが分かる。
…………手斧でも、勝機無いかも。
ふっ、と過った不安を打ち消すように、宣言してみせる。
「覚悟なさい、雪女。」
夏の日差しの下で掴まれた左手。凍り付く冷たい腕の中から助けて貰った右手。斧を掴む両手に力を込める。
雪女は相も変わらず微笑を浮かべている。女の私でも惚れ惚れするような完璧な笑い方だ。優美で、可愛げも有り、それでいて上品。蠱惑的にすら思える。
「あらあら。そんな呼び方しないで?雪女だなんて、他人行儀だわ。」
目元が細められ、口角が一気に上がる。雪女が満面の笑みを浮かべたのだ。
nextpage
「お母さん、でしょ?」
その笑顔はひたすらに優しげで、まるで聖母のようだった。
作者紺野
☆★☆2月18日 17:54投稿☆★☆
第二回【オマツリレー】作品、第四走者の紺野と申します。
【Mountain of Snow Woman】
第一走者 紅茶ミルク番長様
http://kowabana.jp/stories/25592
第二走者 鏡水花様
http://kowabana.jp/stories/25609
第三走者 ラグト様
http://kowabana.jp/stories/25616
第五走者 mami様
第六走者 綿貫一様
第七走者 マガツヒ様
第八走者 コノハズク様
第九走者 よもつひらさか様
第十走者 ロビン魔太郎.com様
外伝走者 こげ様
☆☆☆登場人物の紹介☆☆☆
桜田 春美(サクラダ ハルミ)…春に地元の大学院への進学を控える大学4年生。明るく優しい性格で行動力がある。千夏とは高校からの親友。大学のサークルが一緒の4人で昔から色んな場所へ遊びに行っていた。今回の旅行では告白する決意をしてやって来ている。
海野 千夏(ウミノ チナツ)…春に地元で就職を控える大学4年生。社交的で誰に対してもフレンドリーな性格。父親が日本屈指の大手企業の社長で一言に『お金持ち』。今回の旅行も彼女の父親のコネで実現した。
紅葉 秋良(アカハ アキヨシ)…春に県外で就職を控える大学4年生。素直だがかなりの単純脳。頭より先に体が動く性格で、自身がバカだと理解しているタイプ。サッカーのスポーツ特待生で入学したため運動能力は秀でている。
雪森 冬弥(ユキモリ トウヤ)…春に県外の大学院へ進学を控える大学4年生。落ち着いた性格でお兄さん的存在。4人の中で最も頭がいいが、友人の秋良が失敗するのを見て面白がるSな一面も…。
雪光 葵(ユキミツ アオイ)…謎の少女。雪女の娘(?)
如何せん僕はみみっちい男なので、話のスケールも小さくしてしまうのです。国家の陰謀から一人の呪詛へ。まっがーれ☆世界観。
因みに、ケシの花から精製されるモルヒネには、催眠作用と興奮剤としての力もあるのだとか。継続的に使用すれば、子供一人操るのなんて簡た…………コホン。mamiさん、後は頼みました。
そして更に後者の皆さん、どうぞ御武運を。
参加させて頂き、とても楽しかったです。
追記 表紙を変えるとどうしても投稿出来ませんでした。申し訳ございません。