妻の実家に家族で帰省した時の出来事。
妻の実家は自営業で、帰省した頃は忙しい時期であったため、
あまり迷惑にならないように、その日は家族だけで近くの温泉に行き、一日過ごすことにした。
nextpage
そこは、地下水同然の源泉を引き込み、ボイラーで沸かしているだけの、
最近よくある温泉で、温泉というよりはスーパー銭湯に近い。
なので、泉質よりも、老若男女のニーズに応える
多彩な湯船をウリにしているような温泉だ。
nextpage
内湯だけでも熱湯、ぬる湯、薬湯、打たせ湯、寝湯、電気風呂などいくつもあり、
露天風呂も石造りとヒバ風呂の二種類がある。
全ての湯船を制覇しようとするだけでも小一時間はかかる。
nextpage
僕は、小学生の息子を連れて、洗い場で頭と身体を綺麗にしてから、色々な湯船を楽しんだ。
息子のお気に入りは打たせ湯で、ちょっと痛いくらいの湯の刺激がクセになったらしい。
電気風呂も、電気の発生源にどれくらい近付けるかチャレンジしたりして、親子で楽しい時間を過ごした。
nextpage
「最後はやっぱりアレだね」と、露天風呂にゆっくり20分ほど浸かり、十分に満喫したあと、内湯を通って脱衣所に向かおうとしたときだった。
息子が不意に立ち止まった。
nextpage
「あれ?まだこのお風呂に入ってなかったよね。これは、なに?」
息子が指差したのはジャグジーだった。
「これはジャグジーってやつだね。お湯の下から泡が出てくるやつ。入ってもいいんだけどぉ…」
nextpage
「けど?ってどうして?」
「ほら、早く風呂上がりのジュースとアイスが欲しいでしょ?
それにお母さんと妹が先に出て、待ってるかも知れないよ?」
「そうだね♪僕、チョコのアイスがいいな。」
nextpage
そんな会話をして風呂を出た僕ら親子だったが、実はジャグジーを避けた本当の理由が、僕にはあった。
ここのジャグジーは、水圧とともに横から気泡を出すタイプではなく、
底に空いた無数の穴から気泡を出すタイプで、
泡そのものによるマッサージ効果を狙ったジャグジーだ。
nextpage
気泡の密度を上げるために、大人一人がやっと入れる小さな湯船になっていて、
気泡が湯に長くとどまるように、湯船の底が深い構造になっている。
しかも、気泡のせいで、湯船の底は全く見えない。
nextpage
以前、このジャグジーに入ったことがあったが、底が思いのほか深かったため、バランスを崩して、湯船の縁に腰をしこたま打った経験があった。
しかも、気泡のせいで温度が下がりやすいためか、湯温が高めに設定されている上に、気泡のブクブクという音が意外にうるさく、落ち着いて入っていられないため、あまり好きではなかったのだ。
nextpage
おそらく、他の利用客も似たようなものらしく、このジャグジー風呂に浸かっている客をほとんど見たことがない。
それにこの日、ジャグジー風呂を避けた、最大の理由があった。
nextpage
息子がジャグジーの湯船を指差したとき、
何故か湯船の中に「人間の顔」が浮かび上がったように見えたのだ。
僕にはひとかけらの霊感も無いが、
あまりにゾッとし、妙な胸騒ぎを感じたので、
息子に適当なことを言って、その場を立ち去ったというわけだ。
nextpage
風呂から上がると、妻と娘もちょうど出たところだった。
休憩所で冷たいものをとりながら家族みんなでのんびりしていると、なにやら風呂場の方が騒がしくなっているのに気づいた。
nextpage
「どうしたのかな?」
「お風呂でのぼせて倒れたおじいちゃんでもいるのかもね」
妻と、そんな会話を交わし、騒ぎの理由が少々気にはなったが、すでに夕飯の時間を過ぎていて、あまりに遅れると、妻の家族に迷惑をかけてしまうので、急いで実家へ戻った。
nextpage
翌日、妻の実家に別れを告げ、自宅に戻り、何気なくテレビをつけたときだった。
「アレ?昨日行った温泉がニュースに映ってるよ」
妻の言葉にハッとして、ニュース画面に食いついた。
nextpage
「○○市の△△温泉で、昨日の午後6時頃、小学生が浴槽で溺れる事故があり、近くの病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。一緒に来ていた父親の話によると、××ちゃんは父親が目を離した隙に、一人で浴槽に入り、溺れてしまった模様です。
nextpage
××ちゃんが溺れていたのはジャグジーの浴槽で、行方不明になってから、浴槽の底で溺れているのを発見されるまで、約20分経過していたということです。家族は浴室、脱衣所、温泉施設内を探していたということですが、ジャグジーの浴槽にまで目は届かず、発見が遅れてしまった模様です」
nextpage
僕は、妻とともに無言でニュースを見たあと、互いに顔を見合わせた。
「この時間帯、あの場所にいたよね」
「間違いなくいたと思う」
「なんか騒がしかったのって、このせいだったんだ!!」
「…そう…だね…」
nextpage
信じられない、いや、信じたくない気持ちだった。
が、
この悲惨な事故の現場に居合わせていたことは
まぎれもなく事実であるようだ。
nextpage
「この子が浴槽で溺れているときに、そばにいたんじゃない?
なにか変なことは無かったの?」
妻のその言葉に、あの映像が脳裏をよぎった。
そう、湯船で見た、人間の顔を…。
nextpage
「いや、特に感じなかったけど…」
僕は、とっさにウソをついてしまった。
そんなものを見た、なんて言ったら、
家族を恐怖に陥れてしまうし、
その事実を認めたくないという気持ちが先行したからだ。
nextpage
だが、やはり僕が見たあれは、決して気のせいではなく、
溺れた小学生の姿だったのだろう。
あのジャグジーに入ったことがあるから、発見が遅れた理由も理解できる。
nextpage
あくまで推測だが、僕がそうだったように、その小学生も、気泡のせいで底が見えず、思わずバランスを崩して溺れてしまったのだろう。
浴槽が小さかったことで、一度頭が下に向いてしまうと、浴槽の壁にぶつかり、体勢を入れ換えられず、立て直すのが難しかったのかもしれない。
nextpage
気泡が、小学生の視界や平衡感覚を奪い、パニックを引き起こしたことも考えられる。
さらに気泡によって、水から得られる浮力も無きに等しかった可能性もある。
浮力がなければ、浮かび上がるどころか、深い浴槽の底に沈み込んでしまう。
nextpage
浴槽の底に沈んでいる小学生の姿を包み隠して発見を遅らせたのも、気泡によるものに違いない。
ましてや、あまり人気のない浴槽だ。
利用客に自然と発見される可能性が低かったのも災いしたのだろう。
nextpage
もし、あのとき、息子がジャグジーに入っていたら、どうなっていたのだろう。
もしかしたら、その子を救えたかもしれないが、結局手遅れだったかもしれないし、いくら考えても堂々巡りになるだけだ。
nextpage
ひとつだけ言えることは、ジャグジーに浸かったときに、溺れて底に沈んだ人間を見つけてしまったら、強烈なトラウマを抱えてしまい、もう二度と、楽しく温泉に入ることができなくなってしまったのではないかと思う。
nextpage
家族旅行は僕にとって最高の幸せだ。
これから先も家族と楽しい思い出をつくるために、あのとき見た「湯船の顔」のことは、記憶の奥底にしまっておこうと思う。
・・
・
作者とっつ
一応、フィクションです。
シリーズという訳ではないですが、
「夏の日の出来事」「獣害事件の真実」「不思議な産声」に続いて、
また本人たちにはナイショで僕の家族に登場してもらいました。
家族旅行ネタは無数にあるので、そのうちまた登場させちゃおうかな(´ω`)