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ヨーロッパなどキリスト教文化圏では、多数の人骨で飾られた教会があるのだという。墓地から取り出した骨をそのまま教会装飾にすることで、供養の意味を兼ねたのか。
一見は不気味で理解不能な感性に思われるが、中世絵画の「死の舞踏」、死者たちと踊る寓意画や、メメント・モリ(死を忘れるな)、近世彫刻の墓標の朽ちゆく死体の模写に通じる独特の哲学でもあるだろう。
けれども、案外に神の視点からならば、美と充実をも感じたのかもしれない。聖書は「人間で世界を満たして充実させなさい」という、地上に人間の世界をつくることを説いている。
だから地球を人間で満たすことは正しく、また「美しい」のである。
一般に神様は善悪の観点から考えられることが多いけれども、ひょっとしたら神様には「美しさ」がもう一つの基準であるのかもしれない。
だから、一見は「悪」にしか見えないものが世界や歴史に存在することになる。美には、凄惨な戦争絵画や悲劇も含まれるわけで、そういう視点から世界が創造され、歴史が続いているならば。
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これはそんな「骸骨寺」の一つ。
ヨーロッパの教会は十字架形の建物になっている場合が多いようだが、本寺はフランボワイヤン(炎のような)・ゴシックと呼ばれる中世末期の建築様式なのだという。
これは鬱蒼たる森林イメージを模した、ドイツやフランスのゴシック様式をより一層に先鋭化させた形で、遠くから見れば巨大な黒い炎が立ち上っているかのように見えるだろう。
聖書、荒野でイスラエルの民を導いた「光の柱」の伝説があるけれど、これはそのイメージが反転したパロディだとでもいうのだろうか?
まず寺の名前が「火葬」を意味することが奇異でもある。
なぜなら普通はヨーロッパでは宗教や文化上の理由もあってか、土葬が多い。イスラムなどでも「世界の終わりでの復活」に備えて土葬であるし、古代エジプト人に至っては、死後の生のためにミイラ加工までを行った。
また、ゾロアスター教徒に至っては、火を神聖と考えていたものだから、死体を燃やして火を汚すことは禁忌とされた。
なぜ古代ペルシャ由来のゾロアスター教の話などを持ち出すかと言えば、寺のある土地柄として、マニ教(ゾロアスター教と関係が深い)の影響を受けた異端宗派の栄えた土地だから。宗旨からしても少々不自然なのである。
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その謎は、郷土史を見れば氷解する。
この寺はかつて、ペストが流行した際の犠牲者を供養するために建てられたものなのである。
疫病の伝播を防ぐ意味もあって、通常の習慣に反して、例外的な大規模な火葬が日夜に行われたのだという。
日夜に、というのは「膨大な犠牲者」を暗示している。現に寺院内部を飾る人骨の数は、試算で二千を下らないだろうとされている。
別に元が都市だったのではなく最初から荒野で、今現在でも不吉とされて人家は少ない。この寺院がある場所、つまり過去の大規模火葬場までは、周囲の村からの道が延びている。
感染を恐れた人々が、車輪をつけた板のような即席の霊柩車に山羊をつけて追い立てると、勝手にこの場所まで引っ張ってきたのだとか。そのため神の意志による「奇跡」の一種と考えられた。
今でも、風混じり山羊の首の鈴が聞こえてくる。
そんなときは、周囲の村では戸や窓を閉ざす。
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そんな場所を訪れようと考えたきっかけは、学生時代に、中世末期の社会史について調べていた事があったためである。ちょうど十四・五世紀にはペストの流行もあり、世紀に比べると人口減少などの暗い面もあるのだが。
あまり大量の観光客は訪れないものの、一般の拝観が許可されている。
地中海に面した保養地に近いこともあり、物好きな連中に一定の需要もあるらしい。寺(教会)だって設備や維持費・最低限の人件費は必要なわけで、多少とも地元民以外からの収入も欲しいのだろう。
歴史趣味もあって、ちょっとジックリ見てみようという気になっていたし、面白い逸話の一つも聞けるかもしれないと期待していた。
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寺に入ってまず目に付くのは、入り口に独特の剣が飾られていることだ。
フランベルジュ(フランベルク)と呼ばれるタイプの西洋剣。
その刃は銀色の「炎」のようにギザギザで、美術品としての価値があるが、別名を「苦痛を与える剣」と呼ぶ。ノコギリのような刃が肉を引き裂き、苦痛と複雑で治りづらい傷を与えるからだ。
美しさには刺や苦痛がつきものらしい。
ともあれ、連想するのは、エデンの園を守る「自転する炎の剣」である。おそらく死者たちの安息を守る意味なのだろう。
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複数の壁龕(壁のくぼみ)には、十字架のようなモニュメントに組み合わされた人骨が飾られて、それだけでただならぬ気配がある。
そして上を見上げて「アッ!」と驚くのは、さながらシャンデリアのように、さらに多い人骨のモニュメントが飾られていることだ。
けれど、奇妙なことに気がついた。
ポケットからスポーツ観戦用の双眼鏡を取り出して、天井近い上空の骨を仔細に確認する。
たまに視界に黒い影が過るようだったが、虫か光の加減、もしくは目の錯覚だろう。
そんなことより気にかかったのは、飾られた骨の状況だった。
斬られたり、打ち砕かれたと見られる形跡。
単純に病死ではこうはなるまい。
つまり「殺された」ということだ。
そして、この辺りが異端宗派の勢力圏であったことを思い出す。
西洋人は宗教熱心のあまりに過度の厳格さや偏狭さから(さらには政治対立や個々の利害関係も絡む)、宗派対立や魔女裁判などで大量の犠牲を出してきた恐ろしい歴史がある。
たとえそういう苦悩によって、国際法や洗練された近代哲学が洗練されたのだとしても、それでもって「はい、そうですか」で済ませるには、目の前の物証は重々しい事実でもあるだろう。
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そんなとき、見咎めた老神父がギョッとした顔で呼びかけた。
「それはいけない!」
歩み寄るなり、慌てた手つきでスポーツ双眼鏡を覗くのを止めさせる。どこか青ざめていた。
「こういうものは、あまり見つめ過ぎてはいかん」
「失礼、神父様」
ひとまずは不躾を詫びながら、隙を見て、スマホで撮影しようと思っていた。おそらくそれが、この神父の一番恐れていることなのかもしれないが。
そして見透かした調子で「昔のことですし」と付け加えると、老神父は左右に頭を振って、私の考えているであろうことを言外に否定した。
帰り際、神父は親切にも、灌水器で聖水を振りかけて十字を切る。
こんな風にお祓いをしてくれるところを見ると、単に善意で気遣ってくれただけなのかもしれない。
私はコッソリとスマホで撮影までしたことに、少し罰の悪い気分だったが、素直に礼を言った。迷信深くはなくとも、多少の礼儀は弁えるつもりで。
しかし。
寺を出ようとした際に、立てかけられて固定されていたはずのフランベルジュ剣が、音もなく倒れかかって、さながら斬りつけるように落ちてきた。
ギザギザの刃の先で手の甲が切れ、血がタラタラと流れた。
「そら、見なさい!」
老神父は目で叱りながら、備え付けの居住部屋に引っ張っていって、包帯を巻いてくれた。
そしてコーヒーを出して落ち着かせながら、いささか面妖な過去の経緯を語り聞かせてくれた。
「世の中には、当たり障りのない宗派対立だけでなくて、本物のどうしようもない「邪教」というものもある。この寺は、その呪われた悪霊どもを封じ込めて、火刑で罰しておく地獄の一種なのだ」
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けれども本当の恐怖はそれからだった。
レンタカーで近隣保養地のホテル部屋に帰るためには、森の中の道を通らなければいけない。
ところが具合が悪いことに、いくらも行かないうちにエンストを起こして、暗い森の中で立ち往生してしまった。
しかもレンタカー業者に電話が通じない。
何度かけても通話中なのだ。
そうこうするうちに日が落ちてしまって、やむなく車中で一泊する覚悟をするしかなくなる。
もうそろそろ閉店してしまうだろうし、これから連絡がついても、すぐに修理業者や迎えが来るかも怪しい。土地柄でアバウトでずぼらなのだ。
そもそも、故障車を押しつけて電話に出ない時点で、延滞料の支払い拒否の理由は充分。電話に何度もかけた痕跡の証拠は残っている。
幸い、水筒のコーヒーの残りだけでなく、ペットボトルの水と小腹を満たすビスケットくらいは鞄にあった。
そして眠り辛いながら、ウトウトしはじめる。
しかし寝つけない。
バックシートで無理に横になっても、足を伸ばせないし、寝台としては横幅が足りない。そもそも寝るように出来ていない。
そこでスマホを取り出して、昼間に骸骨寺で撮影した写真を見たら、戦慄が走った。
一発で「これは駄目だ」と確信する。
夢でも見ているのでない限り、アウト。
骸骨モニュメントを写したはずが、生々しい死体の山。血塗れで腐りかけ、団子になった死体の山がそこに映っていた。
shake
突然に車体が揺れた。
周囲を見れば、窓の外にたくさんの手と顔。
生身の強盗などでないのは明白で、血塗れだったり、顔が半分くらい破れて骨だったり。脳味噌や目玉を零していたり。
車の窓ガラスに張りついたたくさんの手。腐りかけたり、指がなかったり。骨だったり。
大昔の邪教徒たちの死霊だということは、子供だってわかるはずだ。あまりの非現実感と心理的な衝撃で、パニックになりそうになる。
shake
揺れているのは車体だけでなく、膝や身体が震えて止まらない。
(もうダメだ。こいつらに取り殺される!)
そんな風に思ったとき、どこか遠くから鈴の音が聞こえてきた。
シャリン、シャリン、シャリン……
さながら山羊の首の鈴のような。
外からこんな繊細な音が聞こえるわけがなく、物理的な音というよりも、さながら霊的な振動が直接に頭の中響いているようだった。
だがやがて、音がカランカランとハッキリしてくる。近づいてきたらしい。
不思議と車の周囲の死霊たちはいなくなっていたようだったので、確認のために外を覗いて、つい悲鳴をあげてしまったが。
それはあの老神父だった。
手には鈴を持っている。
一部では教会の鐘が悪天候を払うという迷信があるそうだが、この鈴もそういうものなのか。
「大変な目にあったようだね」
老神父は鷹揚に笑って言った。
「まあ、生きておるうちに地獄や煉獄をちょっとくらい覗いておけば、いい贖罪になって天国に行けるというものさ」
あのダンテの地獄編のように、生きているうちに地獄を見て、その苦行で罪を清められる説話というのは、中世には多かったそうだ。
ようやく人心地ついた私に、神父は言った。
「とはいえ、間に合って良かった。
あいつらは生前に黒魔術の儀式で、人間の内蔵を食べていた悪霊で、もし捕まったらどうなるかわかったものではない。
たぶん地獄まで連れて行かれてしまうだろう」
「そうだったのですか」
安堵で胸を撫で下ろした私に、神父は自分のシャツを左右に開いて見せた。
「私も昔に危ないところだったが、主の「奇跡」の御業で一命を取り留めたのだ。
それ以来、あの地獄の囚人どもの監視役を仰せつかったというわけさ」
老神父の胸と腹は肉がなく、内蔵もなくて、空っぽの空洞になっていた。
遠くで、あのフランボワイヤン・ゴシックの骸骨寺が、赤黒い炎のように輝いて、風に乗って火刑の苦鳴が無数に響き聞こえてきた。
(了)
作者退会会員
ケータイ小説ですが。割と読みごたえがあるかも?
インターネットで見たのですが「骸骨寺」って実際にあるみたいです。
なお、ヨーロッパの教会美術については、エミール・マールの邦訳が岩波文庫から出ている。