聖書(バイブル)の裏ベスト?/一神教と多神教について(豆知識・考察エッセイ)

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聖書(バイブル)の裏ベスト?/一神教と多神教について(豆知識・考察エッセイ)

1(ヨーロッパの「聖書」)

 今回の話は「聖書(バイブル)」について。

 一般的にはキリスト教の聖典として知られ、アダムとイブ・楽園追放やノアの箱舟の「創世記」や、モーゼの十戒で知られる「出エジプト記」、イエス・キリストの言行録である四つの「福音書」などの部分が有名である。

 しかし、実はそれだけではない。

 元々は「聖書」の大部分というは、大昔の古代ヘブライ人(現在のユダヤ人の初期グループ)の宗教的な歴史記録である。

 まず「聖書」の何が画期的だったかといえば、究極的な唯一神(創造主、最高の根源的存在)のアイデアや考え方を提示したこと。さながらガリレオではないが、あんな時代の古さ(ほとんど有史前)の段階でそこまで宗教・哲学面での思索を推し進めた先見性がコペルニクス的転回。

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスの「第一原因・不動の動者」や、日本や中国の「天」ではないが、宗教的観念を論理的に突き詰めて考えていくと必然的にそうならざるを得ない。

 細かい理屈の考察は後半に回すとして、聖書の知られざる裏ベスト・エピソードを幾つか紹介したい。自分も全て読んだのでなく、概説書を通じて大雑把に把握しただけだが、ちょっと内容を知るだけでイメージが変わるかも知れない。

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2(聖書の裏ベスト・エピソード)

・サムエル記

 聖書(の「旧約」部分)で有名な「創世記」やモーゼだが、それらが(伝承として口伝されていたとしても)文書としての形で整理されたのは、聖書の中では比較的に新しいらしい。

 編纂された時期が古いのは「サムエル記」とそれに続く「列王記」だと聞いたことがある。ダビデ王やソロモン王といった古代イスラエル王国の、宗教的視点からの歴史記録。

 サムエルは「預言者」(神の言葉を預かって伝える人)であり、宗教指導者・知恵者の側近としてダビデ王(最初期の古代イスラエル王、イエスの先祖)を助けたり警告したりする、語り手役の主人公として描かれる。

 ある意味で(ヨーロッパの宗教的観念における)日本の「古事記」のようなものだが、文化と時代・環境からずいぶんテイストが違っているので、読み比べると面白いだろう。

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・ヨシュア記

 ヨシュア(士師と呼ばれる指導者)はエジプト脱出したモーゼの直後の指導者で、中東で征服戦争を行った人。「士師記」には後継者たちの記録が続いている。古代ヘブライ人(ユダヤ人)が王国化する前の宗教共同体だった時期の話。

 聖書の「旧約」部分では、古代時代の戦争のことや暴力的な事件の記事がしばしばだが、当時の中東で生き残る(集団として存続する)ためには宗教的狂信で戦うしかなかった事情がある。

 そういう独特の性格と精神文化は古宗派であるユダヤ教だけでなく、同じ聖書を基盤としているキリスト教やイスラム教にも影響を与えている。

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・エゼキエル書

 エゼキエルやイザヤ(同名の複数人物)は、古代ヘブライ人の王国の衰退・崩壊の時期に信仰を説いて警告・訓戒・激励した人物(預言者)の代表格。今の感覚でいうところの「古代エルサレムの最後の愛国者たち」といったところか。

 このエゼキエル書の前半はアイロニックだったり幻想的なエピソードが多く、神秘主義思想や文学作品の源流にもなっている。後半は神殿の構築について詳述されている。書かれた内容だけ見ていると意味不明でユーモア文学のようだが、実際には当時の一大思想家だったらしい。

 ちなみに中世の「カバラ」思想はこの書物の「不思議な動物」(神の玉座・乗り物と解釈される)幻視が発端になっているらしい(日本のアニメ「エヴァンゲリオン」でもカバラの「セフィロートの樹」が登場している)。また近代ホラーの金字塔「フランケンシュタイン」の人造人間のイメージは「枯骨の復活」の幻視らしい(冒頭でヨブ記の実存哲学的なフレーズが引用されている)。

 ヨーロッパの思想・文化や芸術では、聖書は源流として大きな影響を与えており、文学作品や絵画などでもそうである。中世末期のルネサンス以降に復興して再活用された古代ギリシャ・ローマと並ぶ二つの精神文化的主柱になっている。

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3(一神教と多神教についての考察)

 原始的な多神教における「神々」というのは(ヨーロッパの宗教的観念からすれば)厳密には天使・悪魔や聖人・英雄である。

 ただし第一原因(聖書の言う唯一神)を漠然とでも認識しているようなヒンズー教(インド)や日本の神道(儒教的な「天」や仏教の「ダルマ」を知っている)などは「多神教的一神教」と言える。キリスト教ですら聖人や天使への「崇敬」を容認しているのは、人間というのは極度に抽象的な世界で生きているわけでないし、具体的な方がわかりやすく馴染みやすいからなのだろう。

 「原始的多神教」の欠陥というのは、正義の客観的な基準や善悪のチェックができず「悪い意味での相対主義」に陥りやすい傾向である。だからしばしば原始的な多神教は邪教や悪魔崇拝と変わらなくなる。たとえどれだけ無茶苦茶であっても、客観的な正義・善悪の観点から審判や処断されないので、万事が野放しで収拾がつかない。

 逆に、古代ギリシャ後期の「神統記」(ヘシオドス)では「正義の神ゼウス」が最高権力者として全てを支配し、日本の神道でも天照大神(国家の主神)が一定の善悪チェック・監督している。

 それからキリスト教(一神教だが天使や聖人を容認)も含め(日本神道やヘシオドス神話など)、それらは(唯一神・第一原因・天のことを認識した上での)「多神教的一神教」であるために、一神教(抽象・論理的な正しさ)と多神教的な世界観(人間が具体的に生きる上での必要性・有益さ)との間で絶妙なバランスをとっているのだと思われる。

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4(結論その1、聖書の独特のポジティブ志向)

 しかし、古代ヘブライ人たちは、世の中が原始的多神教ばかりであった大昔の時代に、ウルトラ・ハードコアな一神教原理主義を実践しようとした。

 周囲からは理解されず、また理解されようとも思わず。結果は徹底的に弾圧や迫害されまくり、逆に自分たち自身も平気で加害者になるのを厭わなかった。むしろ弾圧に耐えること・信念のための敢闘精神に宗教的価値を見いだす、非常にアグレッシブでハードコアな姿勢がある。

 聖書(バイブル)に影響されたキリスト教・イスラム教などでも、そういう価値観や美意識があり、殉教は精神・魂の救済であり、「神の敵」を加害・虐殺するのは正義だという、良くも悪くも独特のポジティブ志向な精神文化。

「苦難・絶望と信仰心・信念」が聖書のテーマの一つとなっており、そういう鍛錬された粘り強い精神性が持ち味。所属する宗派や宗教以前に、人間にとって普遍的なテーマ。

 過去のヨーロッパで、キリスト教が広まり公式採用された頃の古代ローマ帝国は衰退と苦難の時期であった(国教化などの当時の具体的な「政策と方法」は賛否両論で、デメリットを伴う諸刃の刃だったようだが)。今も昔も宗旨(宗教・宗派)を越えて多くの愛好者を引きつける魅力の一つかもしれない。単純に哲学や文学作品として。

 白人キリスト教徒は古代異教徒のギリシャ・ローマの著作を喜んで読むが、神道の日本人がヨーロッパの聖書やギリシャ・ローマや中国の古典を読んでも何の矛盾もない。たぶん彼ら(白人キリスト教徒)も日本の勅選和歌集(古今集とか)の美意識や、身分の高低に過度にこだわらない天皇・為政者の一視同仁や国民相互の平等意識、教育普及や文化的性格の国民性を知れば良しとするだろう。

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5(結論その2、聖書・キリスト教と日本神道)

 そもそも論理的に考えれば、聖書の神(創造主)であれ、東アジアの「天」の観念であれ、そういうものに思い至る。

 ダンテによれば異教徒の善人は辺獄の楽園で救われるそうであるし、福音書の「義に飢えた者は幸いだ、大地を受け継ぐから」とはまさにそのことだろう。そもそも聖書の神やキリストが「絶対善」であれば、洗礼を受けていなかったり異教徒であっても、過剰に差別や虐待するとまでは考えにくい。

 キリスト教徒ですら大部分は煉獄(不足を補う場所)や地獄であり、日本の神仏の「浄土」や地獄とあまり変わらないだろう(日本の地獄は煉獄も含んで指す言葉のようだが)。イスラムの(わかりやすい)天国だって実質的に「マホメット浄土」みたいなものだろう。

 普通の人間は聖人のように最高の天国に直行出来るわけがなく(凡人は全面的に完璧な善人であることなど絶対に不可能)、各国・地域の伝統宗教の天使や聖人にでも助けて貰うしかない。ヨーロッパがキリスト教、アラビアやトルコがイスラム、日本が神道(仏教や儒教も含む)で、相互に宗教が違って何が悪いのか、自分にはよくわからない。

 もっとも自分個人の場合にはそもそも信心そのものがあまりない方だろうがw ただ、価値観や物の見方という意味では、明らかに「神道」の精神文化の影響下なのだろうとは思う(個人の出来はともかくとして)。

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