「――『影の病』ですね」
それまでずっと黙っていたルリが、不意に口を開いた。
「『影の病』……って、芥川の『椒図志異(しゅくとしい)』に載ってるやつだっけ?」
私はつい普段の調子でルリに尋ねたが、それを聞いた加賀美は怪訝な表情を浮かべている。
例の左右別々の顔に、だ。
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「あ、ごめんなさい……。
私たち、同じ大学の国文科に通ってて、日頃からよくこういう会話をしてまして……」
私は慌てて弁解する。
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「彼女――メアちゃんが今言った『椒図志異』というのは、文豪・芥川龍之介が学生時代、見聞きした怪談・奇談を書き留めたノートのことです。
その中に、江戸時代の女流文学者・只野真葛が東北地方の奇談を集めた『奥州波奈志』という文献の記述があって、『影の病』という話が出てくるんです」
ルリが淀みなく話し始める。
こういう話題――古今東西の怪異譚――になると、彼女の人見知りはなりをひそめ、饒舌になる。
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「ある人が自分の部屋で、誰かが机に伏しているのを見つけます。
着ている服や髪型を見るに、それはどうやら自分自身の後ろ姿であるように思われます。
不思議に思って、顔を見てやろうと近寄ると、その人物はすぐ走り去って消えてしまった。彼は、その年のうちに死んでしまいます。
実は、彼の父親も祖父も『もうひとりの自分』に行き逢った挙げ句、亡くなっていたということが明らかになるのですが――」
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そう。『もうひとりの自分』――つまり、ドッペルゲンガーと行き逢い、結果死んでしまうことを、ここでは『影の病』と言っているのだ。
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「でもね、メアちゃん。
私が言いたかったのは、『奥州波奈志』みたいな『自分自身の分身』が現れるような症例のことじゃないんだ」
あらら。どうやら、私の早とちりだったらしい。
突然よくわからない古典の授業に引っ張り込んだ挙げ句、結局ただの回り道だったとは。
依頼人には申し訳ない。
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「加賀美さん。本題から少しそれてしまいましたが、それでもまったく関係ない話というわけではありません。
古来より、『影』という言葉には多くの意味があった、ということです。
光源の反対にできる黒い像である『影法師』の意味はもちろん、『月影』といえば『月の光』という意味を持ちます。
『影も見えない』といえば『姿や形』ということですし、『面影』という使い方もしますね。
そして――、『死者の霊魂』という意味もまた、あるのです」
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死者。
死んだ、宮下のどかの霊魂――。
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「本体と同じシルエットを持ち、身体の動きに連動し、生あるうちは離れることもない。
影はまさに、『目に見える魂』そのものです。
それが地を這うことをやめ、立ち上がってくる。
自身の影なら我が身の分身、『ドッペルゲンガー』です。
そして、他者のそれなら寄りつく影の呪縛、『影の病』となるのです」
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「影の病――」
加賀美が自分の左頬を撫でながら呟く。
ルリが続ける。
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「重なる陰影。身体への憑依。
それらの症状から、診断結果としては『影の病』で間違いありません。
通常、死者は何らかの『強い想い』を持った対象にとりつくのですが、それがあなたがおっしゃる『果たせなかった夢を叶えてほしい』という欲求であるかは、私にはわかりません。
あなた方の実際の関係性を私は存じ上げませんし、正直、興味もありませんので。
私ができることはただひとつ」
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そう。『薬師』が患者に対して行うことは、ただひとつ――。
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「お薬をお出しします。
用法用量を守って、正しくお使いくださいね」
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そう言って、薬師瑠璃は静かにうやうやしく頭を下げた。
〈続く〉
作者綿貫一
こんな噺を。
(その壱)
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