「私たち家族は――呪われているのです」
白いロング手袋をしたその美しい女性は、苦しげな表情でそう訴えた。
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薄暗い診療室である。
外の世界は初夏の陽射しに焼かれている時間帯だが、この古ぼけた石造りの医院の中は、冷房も点けていないというのにひんやりとしている。
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きっと分厚い石の壁がすべて吸い込んでしまうのだ。
熱も――そして音も。
隣近所の生活音や、往来を車が通る音など、一切の物音はこの建物内に響かない。
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静かだ――とても。
だから、その女性の話し声が殊更大きくなくとも、この静寂の中でははっきりと聞き取ることができた。
恐れを含んだ声だった。
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「呪い――ですか」
医療器具やカルテが並んだ机の前には、白衣の女性がすらりと長い足を組んで座っている。
この医院の主――女医、江戸桐子(えどきりこ)。
桐子はすっと目を細める。
僕はその表情を見て、ある種の肉食動物を想像してしまう。
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「どこでお知りになったかは存じませんが、当医院に懸かかられたのは、『その手』の理由なのですね。
それでは、話してください――ええと」
「日暮です。日暮麻里子(ひぐらしまりこ)。
それで、どこからお話すれば――」
云いよどむ麻里子。
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「はじめからお願いします。
はじめから話して、おしまいまで行ったら――」
やめてください、と桐子は薄く笑った。
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改めまして、私は日暮麻理子と申します。
歳は、今年で二十八になります。
父は日暮甚五郎(じんごろう)という彫刻家です。
母は私が生まれた時に他界しております。
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父は一部では著名な彫刻家です。
人嫌いで気難しい人ですが――ひとり娘である私には、優しく子煩悩な父なのです。
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父にはふたりの弟子がおりました。
ひとりは右良圭介(うら けいすけ)さん。
もうひとりは左野実(さの みのる)さんです。
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おふたりとも、気難しい父が認めた、若い感性と才気にあふれる方々です。
歳はどちらも私より十(とお)ほど上で、私は兄のように慕っておりました。
彼らもまた、私を妹のように優しく接してくださいました。
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父と、圭介さん、実さんというふたりの兄――それが、大病を患ってろくに外を出歩けない私にとって、唯一の大事な家族だったのです。
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しかし、ほんの十日前のことでございます。
私の幸せな家族はバラバラに壊れてしまいました。
実さんがアトリエで自殺、父が心臓発作で意識不明になり入院、そして圭介さんが失踪しました。
それらが、すべて同じ日に起こったのです。
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その日、夜の二十三時頃のことです。
私は自室で、趣味のピアノを弾いておりました。
私の家は古い石造りの――ちょうどこちらの医院のような――建物ですので、夜中にピアノをかき鳴らしても、音は隣家には届かないのです。
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一通り弾き終わったところで、窓を雨粒が叩きました。
sound:6
不意の激しい雨でした。こんな夜半に、と私は妙に不安な気持ちになりました。
ちょうどその時、部屋のドアを激しく叩くものがあります。
ドアを開けると、果たしてそれは右良圭介さんでした。
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その時の圭介さんは、普段の温厚な彼とは異なり、憔悴しきって青ざめた顔をしていたことを覚えています。
彼は云いました。
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「麻里子さん、どうか落ち着いて聞いてください。
甚五郎先生――お父さんが持病の心臓の発作で倒れられました。
アトリエで倒れられ、僕と実君とで、今は一階の先生の自室にお運びして寝かせています。
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もう救急車も呼んでいますので、ご安心なさい。
それでも僕は念のため、大通りまで救急車を迎えに行ってまいります。
この家は、往来から奥まったところにありますからね。
それと――」
圭介さんはそこで、いったん、ぐっと何かに耐えるような表情になりました。
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「実君が麻里子さんに話があるそうです。
すぐにアトリエに行ってやってくれますか?
先生なら大丈夫です。
とにかく、すぐにアトリエに降りていってください」
それだけ云うと、圭介さんは傘も持たずに家を飛び出していきました。
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私はその様子を窓から見届けた後、階下に降りてアトリエに向かいました。
アトリエは父の寝室の横にある、広い部屋なのです。
常ならば父と、圭介さん、実さんが各々自由に作品制作に励んでいます。
ただ、その日、部屋には明かりが点いておらず、窓からのわずかな光だけが、実さんのシルエットを闇に浮かび上がらせていました。
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私が声をかけると、実さんは振り返りました。
私は思わずぞっといたしました。
振り返った実さんの顔――わずかな光源に照らされた彼の顔は、笑っているように見えたからです。
いえ、事実彼は笑っていたのです。
声が――私に話しかけるその声が、彼の抑えきれない喜色を私に伝えたのですから。
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「ああ、麻里子お嬢さん。お待ちしていました。
圭介君はきちんと伝えてくれたようですね。
先生なら隣の自室でお休みです。ご心配なく、間もなく救急車も到着するでしょう。
それよりも――」
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実さんはずいと私に近付きました。
私はたじろいで、思わず一歩身を引きました。
それを見て、実さんは不快そうに眉を寄せたのです。
「なぜ逃げるのです、お嬢さん。
圭介君に伝言を頼みましたが、大事な話があるのです。
それはつまり、貴女には私の愛に応える義務がある、ということなのです」
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唐突で、支離滅裂でした。
いつもの実さんらしくありません。
普段は理性的で物静かな、どちらかといえば大人しい人物なのです。
しかしその時はいやに積極的で、独善的にも思えました。
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「私はね、ある悪い奴から貴女を救ったのですよ。
そしてこれから貴女を襲うであろう危機からもまた、救うことができるのです。
私は貴女にとって英雄です。そしてその悪い奴というのは――」
圭介君ですよ――実さんはあざけるように云いました。
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「信じられないという顔ですね?
しかしね、甚五郎先生が倒れられたのも、貴女の身にこれから災いが訪れるのも、皆彼が呪いをかけたせいなのです。
それが証拠に、彼はすべてを暴いた私の言いつけに従って、貴女を呼びに行き、そして家を出ていったでしょう?
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彼はもう戻っては来ませんよ。
悪事を勘弁してやる代わりに、二度とこの家と、貴女に近づかないことを約束させました。
もう――大丈夫です」
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突如、窓の外が真っ白な光で満たされました。
実さんが真っ黒な影法師になりました。
遅れて激しい音。
雷鳴でした。
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「貴方がなにを仰っているのかわかりませんわ、実さん。
圭介さんがそんな恐ろしいことを――それに呪いだなんて、ずいぶんとオカルトなことじゃありませんか」
私はなぜか、ひどく腹が立ってしまって、声を高くして言い返しました。
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それでも実さんは、まったく堪(こた)えずに、返って得意気にこう云うのです。
「信じられないのも無理はありませんよ。
私もあのようなオカルトが、この世に実際にあると知ったのは、つい先日のことなのですからね。
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しかしね、お嬢さん。このままだと確実に、貴女の身に恐ろしいことが起こる。
起こってしまえば、貴女はいやでも信じざるを得なくなる。
そして、それを止められるのは、僕しかいないのです」
私たちは真っ直ぐに視線を交わしました。
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「その犯人が――圭介さんだと仰るの?」
「いかにも」
「信じません」
「お嬢さん――」
「どうあっても、私が圭介さんを疑うことは――」
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ありません、と私が云い切ると同時に、実さんの顔から一切の笑みが消え去りました。
「――なぜ、貴女はそこまで彼を信じられるのですか?
考えてもごらんなさい。後ろ暗くもない者が、すごすごと僕のいいなりになって、家を出ると思いますか?」
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「きっとなにか事情があったはずです。
そしてその事情は、私たちを守ることにあったはず。
あの人はそういう方です」
私の中で、ある気持ちが形になっていきました。
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「……僕は貴女を愛しています」
「私は……圭介さんを愛しています」
はじめ、自分の口から飛び出した言葉に、私は驚いていました。
これまで自覚していなかった感情が、皮肉なことにこのようなきっかけで明らかになったのです。
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「……なんてことだ」
実さんはうめくように云うと、その場に膝まづきました。
その時です。
救急隊員の方々が、激しい足音と共に、玄関のドアから家の中に駆け込んできました。
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私は実さんをその場に残し、隊員たちを父の許へと案内しました。
そして、そのまま救急車に同乗して病院へと向かったのです。
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父が心配だったのは云うまでもありませんが、実さんと一時、距離を空けたかったという気持ちもありました。
ほんの少し前まで、まるで本当の兄のように慕っていた方だというのに。
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父はそのまま緊急手術となり、一命はとりとめたものの、意識は戻っていません。
あの夜、家を出た圭介さんの行方もいまだに知れません。
そして――
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実さんはあの後すぐ、アトリエで、彫刻用の刃物で喉を突いて自殺しました。
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私は、大切な方々を一度に失ってしまったのです。
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そうして、麻里子は語り終えた。
桐子は口を挟むことなく、一部始終を黙って聞いていたが、おもむろに麻里子に話しかけた。
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「お辛いことがありましたね。お察しいたします。
ただ――麻里子さん、貴女からまだ肝心なことをうかがっておりません。
貴女は最初に、『私たち家族は呪われている』とおっしゃった。話の中で、実さんが『貴女に恐ろしいことが起こる』と云っている。
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家族がいなくなってしまったこと以外で、貴女の身に起こったこととは――一体なんなのです?」
桐子は麻里子の白いロング手袋を見つめながら云った。
促すような視線であった。
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麻里子はうつむくと、やがて静かにそれを外し始めた。
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白い肌が、肘より先へ美しいラインを描きつつ、あらわになっていく。
しかし、途中からそれは異質なものに変わっていた。
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石――。
彼女の可憐な指先は、硬質な灰褐色の石と化していたのだった。
(続く)
作者綿貫一
お久しぶりですが、こんな噺を。
続きます。
【穢土切子の心霊カルテ】ふたつの顔 前編
http://kowabana.jp/stories/28800
【穢土切子の心霊カルテ】ふたつの顔 後編
http://kowabana.jp/stories/28805