長編10
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◇孤独◇

下宿を出て大学へ向かう道中、蜘蛛の巣に捕らわれた大きな蝶を見つけた。

蝶が糸から逃れようと暴れるとステンドグラスのような煌びやかな羽が陽の光を跳ね返し、色とりどりの光彩を辺りに鏤めた。

普段なら素通りするのに、なぜだか私はその蝶を助けてやった。因みにこの蝶は普通の蝶ではない。現実にいれば新種発見の大騒ぎだろう。これは所謂、妖である。

蝶が私の手元から飛び去るとき、ツリーチャイムのような美しい羽音が辺りに心地良く響いた。助けてくれた私への感謝の気持ちだろうか。

巣の主は今留守だけど、帰宅して私の所業を知ったらさぞご立腹になるであろう。私が地獄に落ちたら天から蜘蛛の糸は垂れてこないだろうな。

私は幼い頃からこんな風に幽霊や妖怪が見えてしまう。それが私以外には見えていないと知ってから、この事は自分だけの秘密にしている。きっと人に話せば頭のおかしい奴だと思われてしまう。それが嫌だったから…。

私のように「見えないモノが見える」というのはどう説明すれば理解してもらえるのだろうか。こうして大学へ向かう道すがら、さも当然のように奇々怪々、魑魅魍魎、有象無象、様々な怪異が行き交っている。行き交うだけではなく留まってる奴も居る。

例えば駅のホームで電車を待っていると、ベンチの周りから何本も生える異様に長く蒼白い腕がいつも目に入る。そこにOLさんがちょこんと座ると「待ってました」と言わんばかりに腕達が彼女の体を弄り始める。見えていないのを良い事にやりたい放題だ。なんと悍しいものか…。

このように私は不愉快極まりない光景を毎日見させられている。

そういえば去年、あんな助平な腕を別の場所で見た事がある。

高校最後の夏休み。友人がどうしてもみんなと想い出を作りたいと、仲良しグループ数人で遊びに行くことになった。わざわざ遠出してやって来たのは某アミューズメントパークだ。

私はこういった行楽地が苦手である。なぜなら人が集まる場所には往々にして怪異も集まるからだ。ただでさえ暑苦しくて堪らないのに見える私からすれば倍以上に息苦しい。お前達は墓場で運動会でもしてればいいのだ。

遠出してこんな所まで来た理由はこの施設にある超大型お化け屋敷に行ってみたいと、友人から提案があったからだ。しかしながら四六時中本物を見ている私がわざわざ偽物を見にいくのは些か滑稽である。付き合いでなければ決して訪れることはなかっただろう。

案の定、様々な手法で脅かしに掛かるチープな仕掛けの数々は、子猫の愛らしい猫パンチにも及ばない程に細やかなものだった。あくまで私にとってはチープなだけであって、決してこのお化け屋敷がチープと言っているわけではない。悪しからず。

どれくらい進んだのだろうか。長かったお化け屋敷もいよいよ終盤に差し迫った頃、これでもかと大袈裟な仕掛けが襲い掛かってくると、「キャー!」と皆が悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んでしまった。

「きゃー」

私も精一杯の悲鳴を上げてみた。こういうときはなるべく同調するように心掛けている。一人だけ冷めてると場がしらけるのは昔からの経験で理解しているので、これは私なりの気遣いである。なかなか迫真だったと思う。

そのとき、突然床から細長く蒼白い腕が何本も生えてきて、それらが恐怖で怯える彼女達の太腿やお尻を厭らしく弄り始めたのだ。

私はすぐに立ち上がってその場から後退った。

変態下劣な助平妖怪は見えていないのをいいことに好き放題である。私は下劣な腕の下劣な行為にこの施設で一番戦慄していた。

ていうか引いた。

ガタゴトと電車の心地の良い揺れに身を任せていると目的の駅に到着した。駅から出て大学へ向かっていると、ちょうど前を歩く女子グループの会話が聞こえてきた。

「私の叔母さんってめちゃめちゃ霊感強いの。結構霊視してほしいって尋ねてくる人がいるんだって」

皆さんの身近にも「霊感がある人」というのは少数であれいると思う。なかでも霊能者なんて呼ばれる人間をテレビなどで見たりするけど、私は未だかつて本物に会ったことがない。結局はみんな自称で、口から出任せだ。

「叔母さんが言うには、私には先祖の守護霊がいるんだって。いつも私の後ろで悪いのが憑かないように守ってくれてるの。その影響か分かんないけど、私って弱い霊とかだったら見えるんだよね」

彼女はそう言ってるが、彼女の背中には何も居ない。まっさらである。霊感があると自称している人達には一体何が見えているのだろうか。

ちょうど大学の正門前でぺちゃくちゃ喋っている浴衣を着た猿と甚平を着た蛙の妖が居るのだけど、彼女はそれを素通りしてしまった。

やはり何も見えていないらしい。

昔はよく自称霊能者がテレビ番組に出ていたけど、総じて皆ペテン師であった。

夕食の時間になって一階に降りると、母が珍しく心霊特番を見ていた。母はこういう類を全く信じていないので、何か心境の変化があったのだろうかと不安になる。

「ん?いつも見てるバラエティが野球でお休みで他に面白いのやってないのよ。アニメやってるけど莉柚(りゆ)ももう中学生だからそんなの見ないでしょ?」

なんの心境の変化もなかった。

番組は自称霊能者が当時殺人事件があった一軒家を霊視するといった内容だったのだが、まあ、なんと言ったらいいのやら。

「あそこに殺された女性の霊がいます」

「霊の怨みが強くてよろしくないものを呼び寄せています」

「ここはすぐにでもお祓いをしないと…」

どちらの意味でも無人の一軒家で自称霊能者は、有る事無い事好き放題喋り散らかしていた。

挙句、最後はよく分からない念仏を唱えて「祓えました」と満足気な表情をしていた。何もないところに念仏を唱えたところで意味はないと思われる。蜂のいない巣に殺虫剤を撒くようなものだろう。

その心霊特番ではもう一つ企画があった。

総勢三十名近くの自称霊能者を集めて行われたのは簡単な二択問題であった。

スタジオに用意されたAとBの二体の人形。内一体には生前、この人形を大事にしていた男の子の霊が憑いていて、集められた自称霊能者はそれがどちらかを当てるといった内容だった。要するに目利きをさせて彼らが本物か偽物かを試すわけである。

「解答をオープン!」と司会者が言うと彼らの意見は二分した。

「Aの人形には禍々しいものを感じます」

「いや、Aには何も憑いてないよ。Bから出てる異様なオーラをあなた分かんないの?」

「Bは普通の人形ね。Aの人形はすぐにでもお焚き上げしないと大変よ」

やいのやいのと行き交う討論の末、結果発表の時間になった。

「正解はBでしたあ!」

司会者が声高らかに叫ぶと、不正解だった自称霊能者は「いやいや」と食い下がった。そして正解した自称霊能者は「ほれ見ろ」としたり顔であった。

因みにBの人形に男の子の霊は憑いていない。どちらも普通の人形である。

残念ながらこの中に本物はいないようだ。

構内の休憩スペースに行くと席を囲んで馬鹿騒ぎする奇々怪々な連中が居た。何が面白いのか手を叩いて大笑いしている。これではせっかくの休憩時間が台無しである。

「お前さんの持ってきた海星は上手くいった。あの男ときたら笑いが止まらん」

「それとあの女は遣り甲斐が有った。目に墨を塗ってやったあの女さ」

「あの女か。あの時の表情ときたら、お前さんにも見せてやりたかったよ」

「さて、お次はどうしてやろうか。誑かす道具は幾つも有るぞ」

どうやら悪戯の謀議をしているらしい。ていうかあの海星はこいつらの仕業だったのか。

「見える」ということは当然「聞こえる」わけだ。笑い声、喚き声、鳴き声、金切り声が容赦なく耳へ侵入してくる。

先日も蟻が歩けば蒸気機関車が通り過ぎるかの如く轟音が響くであろう、しんと静まり返った講義の最中、私の席の後ろでゲラゲラと大騒ぎするヤカラが居た。おかげで、講義の内容は一切頭に入らなかった。

あの時と同じように、ヤカラは休憩スペースの隅でげらげらと馬鹿騒ぎしていた。

修学旅行の夜、消灯後に行われる事と言えば皆でひそひそと恋話をするのが定番であろうか。例に漏れず私達の部屋ではたった今、そんな話で静かに盛り上がっている。

人の恋路のあれこれを話して何が楽しいのだろう。まあ、芸能人が誰かと二人きりでいるだけでスキャンダルになる世の中なのだから、中学生が恋話で盛り上がるのは至極当然の事なのか。

そろそろ情報が出尽くして話が終わろうかと思ったときだった。

「ねえ、怪談大会しない?誰の話が一番怖いかみんなで決めようよ」

こちらも修学旅行の夜としては定番なのだろうか。なにせ初めての修学旅行なので勝手が分からない。

「えっ、やめようよ。そういう話すると寄って来るって言うし…」

私の隣にいる怖がりの彼女がそう言う。

確かにそうだ。なぜだか知らないけどそういう話をすると奴らがやって来る。どこから聞きつけたのか、壁から窓から床から天井から、ありとあらゆるところをすり抜けてやって来る。

結局言い出しっぺの彼女から怪談がスタートすると、その内妖怪共が私達の部屋に集まって、各々怪談を肴に盛り上がっていた。

一つ話が終わると窓際に居た妖怪が「今の話はどうだった」と隣の妖怪に訊いた。訊かれた妖怪は「俺の話のが面白いぞ」と答えると、それを皮切りに妖怪同士の悪戯自慢大会が始まってしまった。いよいよ以って騒々しい。

私は右耳で怪談、左耳で悪戯自慢の板挟み状態で正直耳を塞ぎたかったけど、それもできずに肩が凝るような状況をひたすら耐えていた。

「あたしの話マジでやばいよ。お兄ちゃんが学校の先輩達と心霊スポット行ったときの話なんだけどね…」

「俺の話も面白いぞ。一月程前に参道前の酒屋の店主に仕掛けてやった話なんだがな…」

「ウチの話の方が怖いよ。友達の友達から聞いた話なんだけどさ…」

「酒瓶を割ったくらいで何だ。儂にだってそれくらいは造作もないぞ。儂なんざ先刻の夜、道行く女子に…」

「その話超怖いじゃん。そういえば、こないだテレビでやってた心霊写真って、おばあちゃんが住んでるとこの近くでさ、あそこってね…」

「戯けが、人の子を誑かすのがやっとの奴が何を謂うか。そんなもの酒の席の余興程度にしかならん」

聖徳太子だったらこの程度屁でもないだろう。しかし私には複数人の話を同時に聞く特技はないので、そろそろ限界である。

「莉柚ちゃん何か怖い話知ってる?」

いよいよ私に話が振られたそのときだった。

「貴様馬鹿にするのも大概にせえ!だったら此処に居るもん皆恐怖させてやる!」

———どんっ!

「…今の音なに?」

「隣の部屋で誰か暴れただけじゃない?」

「誰も怯えとらんぞ」

「今のは序の口だ!」

———ガタガタガタ

「…窓めっちゃ揺れてんだけど」

「えっ、何?マジでなんか寄って来たの?」

「それがどうした。儂の方が凄いぞ」

———パリーン!

「蛍光灯割れたよ!嘘でしょ、マジでなんかいるよ!」

「先生!お化け!!」

それから私の中学校では修学旅行先の旅館やホテルでの怪談が禁止という滑稽な決まりができた。

初めての修学旅行は散々な結果で終わってしまった。

休憩スペースで読書に耽っていると友人達がやって来て、私達は和気藹々と女子トークに花を咲かせていた。

「昨日のドラマ観た?展開すごすぎて来週めっちゃ気になるよねえ」

「みたみた。超気になる。あんたも観た?」

「あたしはその時間ドッキリのやつ観てた。好きな芸人さん出てたからさあ」

「観てないのかよお。莉柚は?どっち観た?」

「私は…」

昨日のその時間、私は部屋の窓に張りついた八つ目の蜥蜴を追っ払おうと試行錯誤していた。腹にある丸い目がずっとこちらを睨むので、鬱陶しくて仕方がなかった。その目に向けてスマホのライトを浴びせて撃退した頃には、そのドラマはすっかり終わっていた。

「昨日は用事があって、その時間は出掛けてたんだ。ごめん」

けれど正直に言っても仕方がないので、私はいつもこうして小さな嘘をつく。

「そっかあ。じゃあ、録画してあるから今度観せたげるね。あっ、そういえば明日さあ…」

昔から仲の良い友人はいた。今だってこうして他愛もない話ができる友人がいる。なのにこの気持ちは一体なんなのだろう。心の奥につっかえた重くて、苦しくて、得体のしれないこの感情はなんだろう。煩わしい。

この感情には覚えがある。幼い頃に感じた、独りじゃないのに独りぼっちのこの気持ち。治まったと思ったけど、どうやらぶり返したらしい。

最近憂鬱だ。

元々笑う方ではなかったけど、このところ極端に笑ってない気がする。やはり独りでこの秘密を背負うのは色々と無理があるのだろうか。祖母が亡くなってから独りでも強く生きようと決心したけど、それも限界なのかもしれない。

その日、大学を出る頃には雲が燃えるように赤く、空の向こうは橙色に染まっていた。今日はらしくない事を考えてなんだか妙に心が寂しい。哀愁漂う夕空がそれに拍車をかけて尚の事心細い。

こんなとき、怪異の事について気兼ねなく話せる友人が隣にいたとしたら、いくらか気が楽になるのだろうか。

海星に憑かれた真っ黒な先輩を見て笑ったり、達磨と小鬼の悪戯を未然に防いでみたり、綺麗な雨虎を見つけて私の想い出を話したり、物を盗むコソ泥妖怪の事を愚痴ってみたり…。

たった一人だけ、一人だけでいいからそんな親友が側にいてくれたらと思う。そんな人が私の前に現れるとしたら、それはいつだろう。もしかしたらそんな願いも叶わぬまま、私は独り寂しく死んでいくのだろうか…。

鬱々とした気持ちを抱えたまま、空が藍色に染まる前に私は帰路についたのだった。

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