第三回リレー怪談 鬼灯の巫女 最終話

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第三回リレー怪談 鬼灯の巫女 最終話

   

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【鬼灯の巫女 最終話】

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 真が再び刀を振り上げる。ぎらりと陽の光を反射する白刃に、一筋の赤い滴が鍔元に流れていく。

 潮の、血──。

 真の口の両端が抑えきれないように吊り上がり、両目には般若のような尋常でない光を湛えながら──白い一条の光が八月に向かって振り下ろされて──その全てがスローモーションとなって目に飛び込んでくる。

 その瞬間、考えるよりも前に体が動いていた。八月の正面に出て、そのまま両手で突き飛ばす。後ろによろけた八月が目を丸くして手を伸ばし、何かを言おうと口を開きかけた。しかし八月は、視線を私から横に移動させていく。

──何?

 振り向いた先、そこには東野さんと真が地に転がり取っ組み合っていた。彼女の両手を抑えながら、東野さんが叫ぶ。

「早く逃げろ!!」

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 それを合図に硬直が解ける。咄嗟に八月の手を掴み、身を翻して神社を抜け、参道を駆けて階段を二段越しに降りた。八月は遅れずに付いて来てくれるので途中で立ち止まる必要も無かった。その間、視界に入った全て─両脇の木々、社殿や鳥居、石垣までも─が自分達を捕えんとする檻のように感じた。

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 鳴りやまぬ蝉の鳴き声までもが二人を嘲笑っているようで、耳を塞ぎながら叫びたい衝動に駆られる。一体どこで間違えたのだ。この島に来たときか。それとも分家の婆様に会った時か。むしろこの町に来たこと自体が──。

どうすればいい、一体どうすれば……。どこかに隠れなければ……しかしこんな狭い島に隠れる場所など……

 その時、八月の声が聞こえた。

「なっちゃん、こっち」

 それだけを言って、私の腕を掴んで引っ張り始める。

「…………」

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 砂利道から僅かに覗く獣道。その藪を描き分けて進んだ場所に、小さな洞窟がぽっかりと口を開けていた。周囲には人の侵入を拒むように注連縄が巡らされている。海の方からも、島の麓の方からも死角になっているようだ。

 

 八月は私の手を握ったまま中に進んでいく。他に隠れる場所もないとは思いつつ、しかしやはり見つかるのではないかと不安を感じながら、八月に並んでそろりそろりと足を運んだ。

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 洞窟の内部はひんやりしていて、とても夏の空気とは思えなかった。足元は砂利道に岩肌が所々露出していて、ペンライトの光がなければ何度か躓いていたかも知れない。

 

 歩きながらも、こんな状況で一体何をどうすればいいのかを考えてみる。でもすぐに、そんなこと、分かる訳がないという結論に至る。私も八月もサバゲー経験者でもなければ武道の嗜みもない。ましてや人外の者が相手では……。

 

「なっちゃん」

 

 突然の八月の声にびくりと反応してしまう。

 

「何?」

 

 八月の姿は暗いせいもあってよく見えない。すぐ傍で私の手を掴んでいるのに、どこか遠くにいるように感じる。

 

「色んな人たちが、色んな話をしてたよね……でも、あの人達はみんな、自分の立場から見えることしか語っていないような気がする」

 

「みんな嘘を言っているということ?」

 

「嘘、とまでは言わない。でも、誰も真実の一部しか話していない。それはそれで仕方のないことなのかもね。人間は時としてそうしないと生きていけないから」

 

「…………」

 

 八月、あなたはなぜこんな場所知ってるの? なぜ私に、園さん達のことを黙っていたの? そう問いかけたいのに、喉の奥に何かが詰まったように声が出なかった。

 

「例えば呪いのことも……彼らの言っていることが全てだと思う?」

 

「どういうこと?」

 

「不漁だとか、あるいは双頭の魚が生まれたとか……そんなことが、呪いだなんて言えるかな。それも迷信深い中世ならいざ知らず、現代において人を殺してまで得るものって何なのかな」

 

「割に合わない、ってこと?」

 

「そう。これだけのことをするには、それに値するだけの事情がなきゃおかしいわ」

 

──確かに、そうだ。不漁やら突然変異の魚が生まれたくらいで今どき生贄はない。それに、潮君の首を私達の目の前で撥ねたということは──最初から私たちを生きて帰す気などなかったことにはならないか……。

 

「彼らはじゃあ、どうして……」

 

「さあ……呪いの実態が何にせよ、住人達はこの島に神社を建て、双子巫女をあてがって怨霊を鎮めようとした。そして……それは不完全ながら、一定の効果を上げた……でも」

 

「……でも?」

 

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 八月は一旦口を閉ざした。

 

 八月がペンライトを向けた先には小さな祠、そしてその周囲に幾つもの長持ちが無造作に並べられている。その外側をあらゆる方向から伸びた何本、何十本もの注連縄が取り囲んでいた。

  

「暗くて方向感覚が少しずれてるかも知れないけど、ここ──多分さっきのお堂の真下よ」

 

 八月が祠を見上げながら呟く。その祠は注連縄で直接幾重にも縛り付けられている。その異常なまでの念の入れように怖気が走る。

 

「どういうこと……?」

 

「あそこは恐らく、本当の呪いを鎮める為に贄を捧げる祭壇──言わば“楔”」

  

なら……ここは一層危険な場所なのでは──

 

 私の懸念をよそに、八月は注連縄を掻い潜ってその内側に入る。手を繋いだ私も勿論一緒に。そして、祠の前に横置きにされた長持ちの前に立った。蓋に幾重もの呪符が貼られている。東野さんなら大喜びしそうな代物だ。

  

 そうだ、東野さんは無事だろうか……? あの双子巫女から刀さえ奪い取れれば何とか切り抜けられそうだが、問題はあの亡霊たち。潮から聞いた話だと、彼はある程度の怨霊なら対処できるはずだが。

 

──ガチャン!!

 

 突如響いた重い金属音にびくりとして、我に返る。目の前の長持ちの鍵が外れたらしい。どうやったのだろう? 八月は特に何もしてなかった筈なのに──。

 

「なっちゃん、開けるね」

 

 八月は躊躇うことなく漆が殆ど剥がれ落ちた長持ちの蓋に手をかけ、一気に引き上げる。

 

 ぎいぃ。

 

 嫌な音を立てて蓋が開くと同時に、異臭が周囲に広がっていく。内部にペンライトを当てた私は、喉の奥に詰まったような悲鳴を上げた。

 

 そこには、あるものがぎっしりと詰め込まれていたのだ。

 干からびた、小さくて茶色い人型のもの。

 

 手足はか細く、胴体も肋骨が浮き出るほど痩せこけている。頭部は胴体と不釣り合いに大きく、しかし目は開いていない。頭髪は辛うじてその痕跡を留めている。長持ちに無造作に押し込められた、生れ出る以前に死に追いやられた胎児たち。

 

「これ──!!」

 

 私は言葉を続けられず、反射的に後ずさっていた。吐き気と恐怖と、同時にとても悲しい気持ちが込み上げてくる。

 

「これが、本当の呪い…………」

 

 その胎児達は──

 

「双頭なのは、魚だけじゃなかったのね」

 

「なんで……こんな……」

 

「これじゃ、生まれることなんかできないわ。恐らく母子共に相当苦しんだ挙句、殆どは死産したんじゃないかしら。それもこれだけの数……何としてでも呪いを防ごうとするのも頷ける。現代なら帝王切開で母子共に救うことはできるでしょうけど──」

 

 八月の推測を聞きながら、周囲を見渡してみる。長持ちの数は二十は下らない。もしかして、ここにある全てにこれが入っているのだろうか。だとすれば一体何百の妊婦とその子たちが犠牲になったのか──。

 

「双子の怨みは、それ程までに深かったということだわ」

 

「こんなの……いくらなんでもこんなの……」

 

 一体何をしたらここまでの怨みを買うと言うのか。伝承にはまだ語られぬ秘密があるのではないか。

 

「わざわざ母子を引き離して、胎児だけこんな所に押し込めているのだもの。この地の住人にとっては是が非でも封印したい過去なんでしょう」

 

 八月はそう言うと、最奥の祠に足を向けた。あそこには、一体何が入っているのか──。底知れぬ闇に囚われていくような、確信にも似た予感が走る。

 

 八月が祠の扉を開くと、その中には一振りの刀と木箱が安置されていた。渚から聞いた禁忌の伝承が脳裏に蘇る。ふと、先程まで祠をがんじがらめにしていた注連縄が全て解けていることに気が付く。やはり何かおかしい。これは間違いなく触れてはいけないものだ──。

 

「八月、待って!!」

 

 引き留める言葉は空しく洞内にこだました。振り返った八月は、既に両手に箱を抱えている。全面にお札が貼られ、幾重にも紐で縛り付けてあった。

 

「やめて八月……」

 

八月は答えず、目を見開いて箱を凝視しながら、、しゅるしゅると紐を解いていく。

 

「八月、八月!?」

 

 一心不乱にお札を剥がし続ける八月。そして蓋の合わせ目を覆っていた最後の一枚を剥がした時──

 

「『うおぉ、うおおおぅ、うおおおおおおおおおぉ…………』」

 

 暗い洞窟の奥底から、吹き上げる風のような音が響いた。

 

 八月が虚ろな目で顔を上向かせ、半開きの口から涎を滴らせてうめき声を発しているのだった。

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 同時にカタカタと刀が音を響かせていた。刀に巻き付いていた赤錆びた鎖がぼろぼろと崩れ落ちていく。

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 ここから早く出ないとまずい。そう思うのに、八月は動こうとしない。この子を置いていく訳にはいかない。それもこんな状態で放置するなど……。

 

「八月、ねえ、八月!! どうしちゃったの!? もう行こうよ!!」

 

 八月の両肩を掴み注意を向けようとした私に、八月はころんと転がすように顔をこちらに向けて、にまあっと顔を歪めた。

 

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 来た道を戻り、参道に入る。石階段を見上げれば、木々の梢の隙間から半ば雲に覆われた夜空が見える。

 さっき八月と手を繋いで降りた石段を再び登っていく。その間にも両脇の闇が徐々に自分達にせり出して来る。いっそこの闇に飲み込まれていけば楽になれるかも知れない、そう思いながらもようやく石段を登り終え、大きく口を開けた鳥居に進む。

 

 このまま進めば、あの巫女達に見つかる。そして、殺されてしまうかも知れない。それでも、彼女のことが心配だ。さっき振り向いた八月の表情は正に狂喜そのものと言ってよかった。何故あのまま意識を失ってしまったのか、自分の不甲斐なさに今更ながら腹が立つ。

 

 私の意識が薄れゆく中、八月は洞窟の出口に向かって行った。一人で逃げてくれているならそれでいい。だが、途轍もなく嫌な予感がする。

 

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 暫く進むとお堂の方から篝火の明かりが漏れてくる。そこには双子巫女と、そして老僧の姿がある筈だ。近づくにつれ、赤いものが見えた。心臓がドクンと鳴る。まさかとは思いつつ、しかし近づくにつれ、それが流血の跡であることは疑いようがなくなっていった。

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 御堂に転がる血塗れの遺体が二人の巫女のものであることに気が付き、ほっと胸を撫でおろした。その不謹慎さに気が回るほど落ち着いていなかった私は、すぐにそれが八月の仕業なのではないかと思い至り、足が竦んだ。

 鉄と腐臭が広がるそこに足を進めると、東野さんがすぐ側の大木に縛り付けられ、ぐったり座り込んでいた。慌てて近寄って縄を解き始めると、彼は顔を上げた。

「北嶋姉か……」

「はい。今解きますから」

 彼はずっと大人しくしていたが、縄を解き終えても直ぐには立ち上がれなかった。窮屈な姿勢で座り込んでいたようだから仕方ないのかも知れない。私と八月の二人を逃がした後、命に関節技を掛けられて投げ飛ばされ、したたかに頭を打ったのだという。

 そして、そこであったことを話してくれた。

§

一時間ほど前──。

 命と真は東野さんを人質に悠々とここで私達を待ち構えていたのだという。どの道この島から逃れる術もなく、人質がいれば必ずここに戻ってくると確信していたらしい。もしそうでなければ、園さんや雅人さんの霊に探させる算段だったようだ。

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 二人の巫女は一人ふらふらと近づいてくる八月を目敏く見つけ、涼しげな顔で待ち受けていた。彼女らの背後から亡霊の声が聞こえる。

「どうじゃ、人質を取って置いて良かったじゃろう?」

「ええ、お父様。流石ですわ」

 命が微笑んで言う。

「「それで? 覚悟は決まったの?」」

 姉妹が瓜二つの声で同時に問いかける。だが、命が八月の手元に目をやって困惑した表情を浮かべた。彼女の手には白木鞘の刀が握られていたのだ。そして──

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shake

「『覚 悟 ハ 決 マ ッ タ ノ……?』」

 八月が首を傾げながら、風が通り過ぎるような囁き声で問い返す。その口元に微笑を湛えながら。双子から笑みが消えた。真は張り詰めた表情を浮かべ、震える手で刀を抜いた。

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『ウ ヌ ラ ノ 血 筋、絶 ヤ サ デ オ ク モ ノ カ』

 ひゅう、と風が吹いた。それは周囲の気温を一気に下げる程の極度の冷気を孕んでいた。

 直後、真は刀を振り被り、あっという間もなく振り下ろす。

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 何かが斬られる生々しい音に続き、赤い飛沫が勢いよく吹き上がる。

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 すぐ隣にいた彼女の姉、命の首が跳ね飛ばされ、頭部が転がり落ちた。

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『お、お主……な、何を……』

 戸惑いを隠しきれぬ僧の声が聞こえた。真が血の滴る刀を手にして、喜色満面の形相で僧を見据えた。彼女はなんと、自分の姉の首を撥ねたのだ。

「あぎゃあぁぁぁぁぁ!!!!」

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 真は狂ったように顔を引き攣らせて奇声を上げながら、切っ先を自らに向けて喉を刺し貫いていく。口元から零れる赤い液体が喉を通る空気と入り混じる音を立てた。

 そうしながら、真は血を含んだ気泡を唇から吹き上げて膝を屈した。

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 自らを刺し貫く刀の柄頭を地に立てかけて、彼女は最後まで喉の奥から奇声を絞り出し続けていた。やがてそれも聴き取れなくなった頃、ようやく静寂が戻ってきた。その刀身に彼女の血が流れ、遂には地に滴っていく。

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『もしや……お前は!!』

 叫びながらも、老僧は煙のように揺らめきながら消滅した。周囲を見渡すと、渚ちゃんのお姉さんの霊もまた消え失せていた。

 大きな目を見開いてそれを無感情に見下ろしていた八月は、何事も無かったかのように踵を返した。

「ま、待て……」

 呼び止めたものの、八月は振り向きもせずに去って行った。その後ろ姿が、一瞬だが血まみれの着物姿に見えた。

§

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 ようやく歩けるようになった東野さんが、取り上げられていたというナイフを真の懐から取り返した。やれやれと呟く彼と私は、疲労感を堪えながら神社の階段を降りていった。

「八月は、どこへ行ったんでしょう?」

「分からん……だが、あの言葉──『うぬらの血筋、絶やさでおくものか』──これは間違いなく、禁忌の伝承に出てきた姉妹のどちらかの言葉だろう」

「そう、ですね……彼女たちにしてみれば、本家も分家も怨みの対象でしかないですから……お坊さんと渚ちゃんとお姉さんの霊は……?」

「あの坊主は恐らく、双子巫女の父親だが、巫女の力でこの世に留まっていたんだろう。その二人が死んだことで、現世にいられなくなったんじゃないか。西浦は俺が気絶している間にいなくなっていた。恐らく向こうに戻ったんだろう。姉の霊は……どこかに飛んで行ったように見えたんだがな。まあ今は然程重要じゃない。問題は……」

 そこで、あの洞窟に続く場所に辿り着いた。私が足を止めると東野さんがどうした、と尋ねる。先刻までのことを説明しながら、私は洞窟に足を向けた。もしかしたらここに八月が戻っているかも知れない。

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 だが、洞窟にはやはり誰もいなかった。東野さんは長持の中を興味深そうに検めていたが、やがて振り返って桟橋に急ごうと言った。

 八月はもう島を出てしまったのだろうか? もしかして神社にいるとか? ちゃんと確かめておけば良かったと思ったが、東野さんはその可能性を否定した。彼女は境内に続く道には足を向けなかったというのだ。

§

 

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 桟橋で非常灯を振る東野さんを見つけたのか、一隻の小型船が港の方から近づいてきた。

小さな操舵席に男性のシルエットと、狭い甲板に別にもう一人の姿が──。

「渚ちゃん!!」

 申し訳程度の桟橋に船が着くと、渚が飛び出すように私のもとに駆け寄ってくる。

「ごめん、七月、東野さんも……私が間違ってた……」

 目に涙を一杯に浮かべて頭を下げる渚。

「私は大丈夫……」

 東野さんを振り返ると、彼はちらりと渚ちゃんに視線を向け、ふん、と鼻を鳴らした。やはり自分達を巻き込もうとした相手を簡単には許せないのだろう。それも当然のことかも知れない。

「お願い、今すぐ船に乗って、この町から逃げて。港からは私が車で駅に送るわ。急いで」

 そこまで言って、渚ちゃんは辺りを見回した。

「八月ちゃんは?」

「八月は……見失っちゃったの!! 渚ちゃん、知らない!?」

 知る訳がない。それを分かっていながら藁にも縋る思いで問い詰める。しかし渚ちゃんは首を振るばかり。しかしその後──

「なあんだ、いるじゃない!! 驚かさないでよ!!」

 渚ちゃんの言葉に、え? となって振り返ると、八月がそこに佇んでいた。まるで魂を抜かれたように立ち尽くす八月を抱きすくめる。確かにいる。生きている。この温もりが愛おしい。かつてないほど強くそう思った。

「八月、大丈夫? 怪我はない? どこに行っていたの?」

 私の矢継ぎ早の問いに答えず、八月の視線はどこか遠くを見ていた。その手には長い年月を経てすっかり変色した白木の鞘。それを固く握りしめたまま離す気はないらしい。

「北嶋姉、今はもういいだろう。とにかく船に乗ろう」

 東野さんの言葉に我に返り、八月の手を繋いで船に乗り込む。

 船を操っているのは初老の男性だった。加藤さんというらしい。お園さんの古くからの知己で、渚ちゃんの知り合いでもあるという。血縁はないものの、渚ちゃんが小さい頃から可愛がってくれたそうだ。

 四人が船に乗り込むと、彼は早速船首を港に向けた。地元の漁師だけあって、荒れ始めた波にも慌てることなく安定した操舵を見せている。

 八月と並んで甲板に座り、吹き付ける潮風の向こうに見える港の灯を見つめていると、隣の八月が、刀を抱いたままぎゅうっと腕を握り締めてきた。もう大丈夫だよ、八月──そう言おうとした私の脳裏に、稲妻のように一つの情景が映し出される。

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──小さな舟の上で刀を振り下ろす青年。打ち付けられる度に呻き声を上げる少女。その着物はべっとりと血に染まり、弱々しく刀を防ごうとする両腕は既に何か所も肉が覗いている。その口から、呪詛の言葉が紡がれる。

『うぬらの血筋、絶やさでおくものか』──

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「北嶋姉妹、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

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 東野さんが大声で叫んでいるのに気が付き、はっとなって八月の様子を伺うと、彼女は苦しそうに肩で息をしている。八月の背中をさすりながら、渚ちゃんが持ってきてくれた水を飲ませようとしたが顔を背けて飲もうとしなかった。今私に見えた光景を八月も見たのだろうか──? 

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 港に着いた一行は加藤氏に礼を言って、渚が運転する車に乗りこんだ。軽のワゴン車で鬼灯町最寄りの駅に向かう坂を上り始める。その途中、八月が再び車内で私の腕を掴んだ。

 その瞬間、再び見た覚えのない光景が脳裏に映り込む。

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──灰色の砂浜が海岸にそって広がる小さな集落。視界に入る家々は茅葺の頼りないものばかりで、漁村の貧しさが見て取れる。人々は皆、ぼろの着物を纏って、これまた小さな舟に乗り込んで漁に出かける所だった。

 ここは鬼灯町──ではない。町となる遥か以前の、しがない漁村だった頃だ。

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 その浜辺を見下ろす女性がいた。髪は白い。だが老いてはいない。現代ならまだ若いとされる年齢だろう。首に数珠のようなものを掛けている所を見ると、占い師か何かのようだ。

 彼女は険しい目を浜辺の若い男女に向けている。小舟を出そうとする男を手伝っていた少女がふっと振り返り、相手を確かめると勝ち誇ったような顔で女を睨み返した。

 

白髪の女はぎりり、と歯噛みをして背を向けた。心の奥底から湧いてくる黒い感情を抑え込もうとするかのように、一歩一歩足を踏みしめて砂丘を上り、小さな庵に姿を消した──。

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shake

 ガゴオオオオッ!!!!

 轟音が鳴ると同時に、凄まじい衝撃が体に走る。前席に顔をぶつけつつも、それ以上のショックを受けるのをシートベルトが守ってくれたようだった。だがそのシートベルトが体にきつく食い込んで、数舜の間息が詰まった。ガクン、と再び衝撃が走った後、やっとで落ち着いた車内を見回す。八月は無事のようだ。

 前の席は……運転席の渚ちゃんも、助手席の東野さんもエアバッグに顔を埋めたまま動かない。エアバッグに押し付けられて罅の入ったフロントガラスの向こうに、一本の大木が見える。どうやら渚ちゃんが運転を誤ったようだ。

 とにかくここから出ないと……。そう思うが、体に走った衝撃が想像以上のものだったらしく、動きが緩慢でシートベルトさえ満足に外すことができない。カチャカチャ手間取っていると、八月がするりとそれを外してくれた。

「八月、ありがとう」

 八月はしかし返事をせずに外に出た。つられて私も外に出る。何かの気配を感じ、車の前方を見ると渚ちゃんの姉の亡霊がニタニタ笑いながら運転席の渚ちゃんを見ていた。ぞっとした私は八月に体を寄せる。

だが──

「『怨ミ、晴ラサデオクモノカ』」

 八月の口から八月のものではない声が響き、私は思わず身を引いてしまった。

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 俯いていた八月が、顔を上げる。その目は鬼灯のように赤く──頭がくらくらする。視界が明滅する。

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 はっとした時には、私は車の前で一人佇んでいた。

「八月……? 八月!?」

 大声で呼びかけても答える声は無かった。車のドアが開く音が聞こえた。

「北嶋姉、無事か」

「東野さん!!」

「俺のことはいい。西浦を……」

 渚ちゃんのお姉さんの霊はどこへ行ったのか、姿は見えない。運転席のドアを開き、渚ちゃんを抱きかかえるようにして外に出そうとした。だが、彼女の喉から滴る赤い液体を目にした時、私の思考は停止してしまった。

「どうした?」

 後ろから声を掛けてきた東野さんは、渚ちゃんの様子を目にすると彼女の状態を確かめ始めた。

「もう死んでいる。ハンドルの破片が喉に突き刺さっているから、それが原因での失血死だな。体内は恐らく血の海だろう」

 東野さんがスマホで救急と警察に連絡を取る間、私は茫然とそこに座り込んでしまった。

「電話が繋がらない。電波障害かな? 田舎はこれだから──。北嶋姉、そう言えば妹がいないな。どこへ行った?」

 東野さんの問いかけに、私は困惑気味に黙りこくってしまった。

「何かあったのか?」

「それが……」

 うまく説明できないもどかしさを覚えながらも、さっきまでの経緯を話して聞かせる。少しの間、彼は顎に手をやって考え込んだ。

「俺が島で聞いたのも君の妹の声じゃなかった。やはり聞き間違いではなかったか……」

「東野さん、八月は……」

「もしどこかに向かったのだとしたら……行き先は恐らく……」

 その時どこかから、凄まじい怒号と叫び声が聞こえた。ぎょっとして東野さんと目を合わせた後、二人でその音源を探して耳を澄ませた。

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 断続的な絶叫はここから見上げたすぐ先、なだらかな丘陵の頂に位置する旧家から響いていた。

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 網元としてのし上がった巌田一族は、五百年にも亘りこの地に君臨してきた。血族の結束の強さと実利主義により、鬼灯町の行政・経済に大きな影響力を維持し続けたのだ。市会議員や商工会の重役に至るまで、巌田家に表立って歯向かえる者はそうそういない。

 だがそのような地位を築けたのは、人材育成の巧みさだけに因るものではなかった。少なくとも巌田家刀自、巌田ユリはそう信じていた。否、歴代の巌田家当主は皆それを知っていたのだ。

 巌田家繁栄の秘密、それは託宣の巫女、則ち占い婆の導きあってのものだ。占い婆は二世代ないし三世代に一人生まれる。誰の目にも明らかな特徴があるために、間違えることなどありえなかった。

 巌田家伝書に曰く、「その髪は白く、両の眼は赤く、能く行く末のあらましこと申したりし」とある。今でいうアルビノと思われるのだが、昔は鬼子と恐れられることも度々であった。だが実際には、巌田家に隔世的に生まれるこの鬼子こそが、巌田家の繁栄を担ってきたのだ。

 かつては託宣の儀によって、毎年の風雨や漁獲の多少、流行り病などの大小の問題を全て海神に縋り助言を求めた。各段優れた知恵者もおらず、情報も少なかった辺境の地にあっては、祈祷をもって神の暗示を求め、時にその善意を懇願する託宣儀礼はその地に生きる者たちにとって重要な関心事でもあった。狭い田舎のことだから、この現代にあっても占い婆のことは誰もが知っていよう。

 だが、その占い婆が本当に予知能力を示してきた真実を、歴代の刀自はひた隠しにしてきた。認めさえしなければ、人はそれを酒の肴程度にしか考えないものだ。実際、余程重要な案件以外は故意に予知とは異なる託宣を漁民に伝えてきたりもした。それもあって、現占い婆・巌田小夜香の予知能力を本気で信じる者など巌田本家以外には殆どいない。分家筋の長老ですら迷信だと思っているくらいだ。

 それでいい。「知らしむべからず、寄らしむべし」とはよく言ったものだ。真理など一部の人間が把握しておればよい。それ以外の下々はお上に全てを任せておればよいのだ。それこそがこの地を治め続ける知恵なのだというのが、七十をすでに超える巌田ユリの信念だった。

 そして巌田小夜香は、齢十七歳という年齢にして既に何度かの託宣を行っている。代々短命であるため、“占い婆”は実際には三十に届かぬまま亡くなることが殆どであった。小夜香の母親もまた、娘を産んで三年後、享年二十四で死んだ。

 これまで小夜香が占ってきたのは、台風や津波の有無、巌田家の重要な事業に関するものであった。そのいずれも、託宣通りに事が進んできたことを刀自一人が知っていた。だから今回、分家が何やら企んでいることを察知した巌田ユリは、早速小夜香に占いをさせることにしたのだ。

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 託宣の儀は八畳の部屋に注連縄で囲いを作り、その中で護摩を焚いて行う。憑坐たる占い婆が唱え事をしながら海神を自らに憑依させ、その言葉を同席した者が書き留めることになっている。尤も占い婆自身は憑依状態の自らの言葉を全く覚えていない。そして同席できるのは、家訓により刀自一人と定められていた。

 ユリはそこでいつも紙とペンを用意していた。ボイスレコーダーを試したこともあるのだが、どういう訳か肝心の小夜香の声が全く録れなかった。それどころか、潮騒にも大勢の人の話し声にも聞こえる奇妙な雑音ばかりが録音されているので気味が悪くなり、一度限りで止めてしまったのだ。

 目の前の小夜香は唱え事を始めて既に二時間、今や意識を失い前のめりに伏している。白く長い髪が畳に広がる様を蝋燭の明かりがゆらゆらと照らしていた。不意に、彼女の両腕がビクンと痙攣した。

 いよいよ始まる。ユリは必死にその言葉を聞き漏らすまいと注連縄の外ぎりぎりの位置から耳を傾け、ペンを握りしめる。

「『お、お、おおおおぉぉぉ』」

 小夜香の口から洞穴から吹き上がる風のような声が漏れる。

「『巌田 ハ……』」

 さらさらとペンの走る音。

「『滅ブ』」

 ユリの手が止まった。

──何? 今、何と言ったのだ? 巌田が滅ぶ?

「『西浦 ハ 皆 死ヌ』」

「…………」

 目を見開いて小夜香を凝視するユリ。背筋が凍りつくような悪寒が走る。いつもとは何かが決定的に違う。一体何が起こっている……?

「『呪イ 来タレリ』」

 呪い? 何の……? 曲津島の呪いなら、西浦家の者を贄に捧げたではないか。まさか鬼灯家の巫女が失態を犯したのでは……。あの姉妹は小夜香に劣らぬ資質を持ってはいたが、いかんせん自惚れに過ぎた所があり、以前より不安を覚えていた。面白半分に霊を召喚するような行為を何度か咎めてはいたものの、一向に聞き入れなかった。海神に色々と仔細を問い質したかったのだが、儀式中に言葉を発すると託宣はそこで終了してしまう。ただ黙って続きの言葉を待つ他なかった。

「『ナツキ ハヅキ ミコトナシ……』」

 小夜香の言葉はそこまでだった。突然力を失ったようにぐったりと横たわる孫を見て、ユリは注連縄の内側に入り彼女を抱きかかえた。この託宣は一体何だ。ナツキ、ハヅキとは……? 何か、決定的にまずいことが起こっている。その時、ふっ、と冷気が流れて蝋燭の火が消えた。

 ミシッ、ミシッ、ミシッ──

 中庭に面した廊下の奥から、何かが近づいてくる。託宣の儀の最中は人払いをしているため、勝手に誰かが近づくなどありえない。とすれば……

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 障子に、何かの影が映り込んだ。女だ。着物姿らしい。障子の向こうのモノは、この部屋に入ろうとしているようだ。肌が泡立つ。とてつもなく危険なものが近づいているという予感がある。逃げ出したいが、もし音を立てればあれに気づかれてしまうという確信があった。もう逃げられない。無策のまま、ユリは孫を強く抱きしめた。

 ス、スス──

 障子戸が開き、何かが部屋に侵入してきた。ユリは小夜香に覆いかぶさり、ひたすら時が過ぎるのを待つ。

 スサ、スサ、スサ──

 入ってきたそれが部屋を歩き回っている。何かを探しているようだ。やがてそれはぴたりと止まった。注連縄のすぐ向こう側だ。

「『イナイ……』」

 聞き覚えのない、何者かの冷たい声が響く。そして、再びスサ、スサ、と部屋を出ていく音が聞こえた。入ってきた何かは、二人を見つけられなかったようだ。注連縄と護摩のお陰だろう。ほっと一息ついたユリは、しかし次の瞬間には屋敷内に響き渡る絶叫に身を竦ませた。

 ユリは小夜香に置手紙をしたため、注連縄の内側に彼女を残したまま部屋を後にした。そして、断続的に悲鳴が上がる場所に足を運ぶ。巌田の当主として、かような緊急事態に逃げ隠れする訳にはいかないのだ。途中で自室に寄った彼女は、さる高僧から与えられたという数珠を手に“それ”の跡を追った。

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「ひぃいいい!!」

 玄関に続く廊下の奥から、何人かの男女が慌てふためいて逃げ出そうとしているのが目に入る。

──遅かった!!

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 早く逃げんさいと声を掛けようとした一瞬の内に、彼らは血飛沫を上げて折り重なるように倒れていく。廊下の曲がり角の端に、ちらりと着物姿の袖が見えた。

 ユリは数珠を握りしめてそれに追い付こうとした。廊下に横たわる死体に手を合わせる暇もない。早くあれを止めないと……。そう思うのに、わが身がかつてない恐怖に震えるのを抑えることができなかった。廊下を進むうちに、電灯がパッと消える。停電か、もしくは──

 やがて大広間から、再び身を切るような悲鳴が断続的に聞こえてきた。歯を食いしばりながら、ユリは急ぎ足でその先に向かう。大広間に入ったユリは、稲妻に照らされた室内を見てその異様な光景に立ち尽くした。

 そこは一族が集まれるようにと拵えた四十畳の大広間で、部屋を襖で幾つかに仕切れるようになっている。今日は託宣があるとの事で、巌田家の老若男女が一堂に会していたのだ。

 その広間は今、障子にも畳にも血糊がべったりと付着し、老いも若きも、年端のいかぬ子どもまでもが首を掻き切られ、腕を切り落とされ、胴を貫かれ、あるいは四肢の全てが切断され床に転がっている。その内何人かはまだ息があるのか、ピクピクと体を痙攣させていた。皆一様に顔を恐怖に引き攣らせ、だらしなく口を開いて血の泡を吹いている。運よく逃げ延びていた女子供たちまでもが悲鳴を上げ、鮮血を迸らせて次々と倒れていく。

 その中心に──

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 血糊滴る刀を手に

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 狂ったように哄笑する少女

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 その着物は血の滝を浴びたかのようで──

 想像を絶する惨状に自失しそうになりながらも、ユリは数珠を手に必死に念仏を唱える。

思わず足が引いてしまう。

 

 やはり──。

 

封印されていたはずの“あれ”が、今や数百年の呪縛から解き放たれている。

「ノウマクサマンダバザラダンセン……ボギャグボグッ!!」

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 ユリが真言を言い終えることはなかった。口の中に冷たく硬いものがねじ込まれたと理解した時には、もはや言葉を発することもなくシューシューと喉を鳴らすことしか叶わなかった。

 喉を貫かれたまま、溢れ出る血の臭いに噎せ返るユリのすぐ目の前で、青白い顔を歪ませた少女が自分の顔を覗き込んで笑っている。

「う、ぐっ……!!」

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 口に突き込まれた刀が熱を帯びたように感じた。いや、事実灼熱の鋼と化した刀が、血のそれとは異なる鬼灯色の輝きを発している。じゅわつ、と刀身を濡らす血糊が蒸発していくと同時に、今度は肉を焼く臭いが充満する。ユリの苦悶を楽しむかのように、少女は立つ力も残っていないユリの頭を掴み上げ、赤く輝く刀を押し下げていく。己の体が焼き裂かれていく苦痛を味わいながら、ユリは顎から下を真っ二つにされて絶命した。

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 高台の屋敷の前に辿り着いた時には、既に屋敷から上がっていた悲鳴は消えていた。ここに来るまでの間、急に雷鳴が轟いて天候が崩れ、豪雨が降り注ぎ始めていた。

 屋敷の表札はやはり「巌田」とあった。門は閉じたままだ。

「東野さん……」

「待ってろ」

 止める間もなく、彼は漆喰の塀を乗り越えて敷地の向こうに消えた。そしてすぐに通用口を開け、首を出した。

「行くぞ、北嶋姉」

 そう言うと自分だけ奥に進んで行ってしまった。仕方なくその小さな木戸を抜け、正面玄関に向かう東野さんの後を追う。ところがすぐに東野さんが立ち止まり、お陰で彼の背中に突っ込む形となった。

「どうしたんですか?」

「しっ」

 彼はそう言うと、私の腕を掴んですぐ傍の木立に身を潜ませた。彼の視線の先に目を向ける。

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 激しい雨の降る中、一人の着物姿の少女が玄関の方から歩いてきた。鬼灯色に輝く刀から、白い煙が立ち上っている。雨水が蒸発しているのだ。その少女の後ろ姿が八月のそれに重なっていく。

「え……?」

 八月? まさか……。

 思わず身を乗り出した私を東野さんが押さえ付ける。

「何をする気だ」

「離して……あれは八月よ!!」

「よせ、何を言ってる!? お前はあれが人に見えるのか!?」

 東野さんの腕を振り払い、私は雨の中に飛び出した。門の外に出た時には既に八月の姿はなく、しかしほど近い家屋から悲鳴らしきものが聞こえてきた。私は躊躇なくその方角に駆け出した。

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 東野は逡巡した。あのまま北嶋姉を放っておいていいものか。あれは紛うことなき怨霊だ。霊障には多少の心得がある東野でも、あれほど禍々しいモノは見たことがない。“あれ”の姿を目にした瞬間、全身の皮膚という皮膚が総毛立ち、第六感がぐわんぐわんと最大級の警報を鳴らしていた。

 北嶋妹は恐らく“あれ”に憑依されたのだ。もはや素人の手に負えるものではない。いや、封印のシステムが崩壊した今、どんなプロの拝み屋でもあれを何とかするなど不可能ではないか。もし解決法があるとすれば、巌田家がその鍵を握っているはず。だがその巌田家にして、既に“あれ”の襲撃を受けてしまったようだ。もう縋るものは──

 東野は頭を振った。冷静に考えろ。今北嶋姉を追いかけても、無駄死にするだけではないか。何か手掛かりを掴むのだ。きっと何かある。それを見つけ出そう。

 十数秒の思案の後、東野は巌田邸に足を向けた。北嶋姉妹の無事を祈りながら。

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「ん……お祖母様……?」

 目を開いた小夜香は辺りを見回してから、そっと声を上げた。託宣の儀は既に終わっているはずだ。いつもならお祖母様が傍にいて自分を労ってくれるのだ。儀礼に用いた注連縄や玉串などは、大抵お祖母様が片づけてくれる。目の前の書置きを一読して、何か只ならぬ事が起こっているらしいことは察した。

 

 確かに、今日はいつもと違いやけに静かだ。祈祷の最中は集まってきた親戚も大抵静かにしてくれているものだが、その静けさとは何かが決定的に異なる。漂う空気が死をはらんでいる、とでも言うのだろうか。その異様な空気に怯えながら、小夜香は立ち上がった。

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 中庭に面した廊下に出た瞬間、雷鳴が轟きびくりと体を竦ませる。そろそろと皆がいるはずの大広間に向かう。停電の為か真っ暗な大広間に近づくにつれ、開け放した障子戸が汚れているのに気が付いた。誰かが液体をぶちまけたような黒い染みが、あちこちに付着している。

 同時に錆びた鉄のような臭い、肉の焼けたような臭い、それに交じって大小便の臭いも漂ってくる。胸の内にぞわぞわとしたものが込み上げてくる。この先に進んではいけない、見てはいけない……。心のどこかからそんな警告が聞こえる。だが自分の足は、それに従うことなく歩みを進めていく。一度転がり始めた毬が自らの意思では止まることはないように。

 遂に障子戸の手前まで来た。呼吸が乱れるのを感じる。一歩進めば中が見える。

 小夜香は立ち止ったまま深呼吸をした。この先にただならぬ光景が広がっていることを予見しながら、それでも見ずにいることはできない。息を殺すようにして、足を一歩踏み出す。

 そろり、

 そろり

 そして──

「あ、ああ……!!」

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 思わず漏れた声は、半ば掠れていた。暗闇の中、赤黒い内臓を垂れ流し、身じろぎ一つせず横たわる幾つもの遺体。切断された腕や足が周囲に四散し、中には首を落とされた者もいる。いつも自分に甘えてきた幼い子供らまでも、白目を剥き出し体中滅多斬りにされてこと切れていた。

 部屋の奥に、殊更強い臭気を放つものがあった。肉と血と汚物が焼け焦げたような、強烈な悪臭。蝋燭の明かりを頼りに畳に散乱する肉片を避けながら近づいて行く。それが、さっきまで同席していたユリの成れの果てだと気が付いた時──

「いやあああああああああああ!!!!」

 小夜香は頭を抱えて絶叫していた。

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 すぐ近くの部屋から絶叫が迸った。一瞬ぎくりとしたが、明らかに人の声だと判断して小走りにそこに向かう。

 開いた襖から中の様子を伺う。懐中電灯に照らされたそこには、酸鼻極まる光景が広がっていた。ある程度の惨劇は予想していたものの、想像以上の殺戮現場を目にして思考が停止する。何秒かしてやっと気を取り直し、声の主を探し始めた東野は、懐中電灯を振りながら慎重に歩みを進めた。靴は履いたままだったが、流石に流血の跡を踏む気にはなれず、足場を探しながら奥に進んだ。

 そして──懐中電灯の先に、何かを抱きかかえて咽び泣く白髪の女が浮かび上がった。

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 豪雨の中、八月を追う。服もびしょ濡れだが、そんな事に構ってなどいられない。八月がふっと姿を消す度にすぐ近くの民家から悲鳴があがる。固まっている私の目の前で、逃れ出た人々が背後から斬られては血飛沫をまき散らし倒れていく。

街灯一つ点いていない真っ暗な闇の中に、そこだけ光が当たっているかのように八月の姿が浮かび上がる。

「八月!!」

 私は腕を伸ばし、声の限りに八月の名を叫び続けた。どんなに全速力で走っても、背を向ける八月に追いつくことができない。八月にもう一歩の所まで近寄ると彼女は霞のように掻き消えてしまう。その度に見たことのない光景が目の前で明滅する。

──村人に追われる姉妹。

──捕らえられ、互いの名を叫ぶ姉妹。

──縄で縛られた二人は、共に連れ去られ……。

 これは何? “あなた”が見せているの?

「八月、待って!!」

 八月の姿に重なる着物姿の輪郭。私が追いかけているのは本当は誰なのか。時折眼前に浮かぶ光景と、目の前の血の惨劇と、どちらが現実なんだろう。

 何度無為な追いかけっこを繰り返したのか、何人が目の前で殺されたのか、数える余裕などなかった。

 

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 やっとの思いで八月の肩を掴んだ時、彼女がゆっくりと振り返ってにやあり、と笑う。

「八月──」

 じゃない。この眼尻を歪めた微笑は彼女のものではない。

「お願い、八月を返して!! 何でもするから──!!」

 白い顔がすっと間近に迫り、私の目を覗き込んで言った。

「『我ガ子ヲ孕メ』」

 底冷えのする声が耳の奥にまで浸み入ってくる。“それ”が手にしているもの、それは曲津島の祠に隠されていた“鬼灯”だった。茶色に変色した、干乾びた拳大の臓器。女の象徴──。

 八月はそれをぽたりと足元に落とした。すると、

「「ウギギギ」」

 奇妙な声が“鬼灯”の中から聞こえてくる。そこから姿を現したのは、干からびた人の原型となるもの。大きな頭部、閉じたままの両目。か細い手足。そしてやはりというべきか、もう一つ同じ姿をしたものが這い出てきた。

 双子……。

 小さな四肢を蠢かし、それらは私の足元から両足を伝い上ってくる。

 私に微笑みかけた八月が再び口を開く。

「『産ミ育テヨ』」

 この死したはずの胎児を振り払うことはできたかも知れない。ただしそうすれば、八月はもうこの女に憑りつかれたまま二度と戻って来ない──そんな確かな予感があった。

「あ……ぐっ……」

 両足の間から血が流れていく。異形のものが私の中に入っていく痛みとおぞましさ。二つの異物が私の血と養分を得て、ドクンと脈を打ち始める。腹部を襲う痛みともつかぬ感触に耐えながら、私は八月を返してとうわ言のように繰り返した。

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 東野は見知らぬ白髪の女の傍で中腰になった。

「ここで何があったんです?」

 振り向いた彼女を見て、東野は少しばかり驚いた。てっきり老婆だと思っていのだ。恐らくまだ十七、八歳くらいではないか。それよりも、彼女が抱いているのは──

「お祖母様が……」

 彼女の腕には、見るも無残な骸が抱かれていた。両目を見開き、顎から下が真っ二つに焼き裂かれたような跡が残っていた。“あれ”にやられたに違いない。何もかもが突拍子無さ過ぎて夢を見ているような気分だ。気持ちがふわふわとどこか違う所を漂っているように感じる。この現実感のない光景の中で、視覚と嗅覚が淡々と陰惨な現場を現実のものと告げている。

「お悔やみ申し上げます。でも今は、この惨事を引き起こしたあるモノを封じる必要があります。僕は故あってここに旅行に来たものですが──」

「渚ちゃんのご友人の方ですか?」

 東野は彼女を見つめた。そうか、さすが巌田家と言うべきか。それとも田舎の情報網はこんなものか。

「そうです。西浦渚をご存じなのですね」

「ええ。狭い町ですから、何度かお見掛けしました。あなた方のことも耳に入っております」

「そうですか。なら話は早い。今は“あれ”を何とかしないと──」

「“あれ”とは?」

 東野はここに来て以来のことを語った。大雑把な説明ではあったが、相手はこの状況を凡そ理解したようだ。

「お祖母様の書置きにも同じ事が書いてありました。やはり、あの封印が解けたのですね」

 小夜香は頷いて、ユリの遺体を横たえて瞼を閉じた。二人で手を合わせた後、小夜香は刀自の部屋から何かを手に抱えて戻って来た。

「巌田家の家宝です。これを使って儀式を行う必要があります」

 小夜香に従い屋敷の外に出る。雨は暫く止みそうになかったが、東野と小夜香はレインコートを羽織り、闇の中に溶けていった。

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 二つの胎児が私の中に入った時、八月は空を見上げていた。体力は殆ど残っていないが、それでも痛みを堪えて八月に歩み寄り、その腕を掴んだ。

「どうしたの、八月?」

 少し前まで激しかった雨足は、ぱらぱらと小雨が降る程度にまで鈍っていた。空から視線を下ろした八月は、その方角に足を進めた。

「八月、風邪ひくよ、着替えないと」

 私の言葉にはまるで反応せずにひたすら歩き続ける。ようやく辿り着いたそこは鬼灯神社を一望する高台だった。

 海に面した小さな雑草だらけの空き地。1メートルほどの高さの古い石塔があり、その上部に円形の鏡が据えられている。鏡の前で二人の先客が座していた。一人は東野さんで、もう一人は……。白髪の女性。巫女服を纏っているが、誰だろう──?

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「『見ツケタ』」

 八月の口から、別人物の声が漏れる。言葉と共に刀が熱を帯び、鬼灯色に輝き始める。

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「八月、やめて……」

 私の制止の言葉は八月に届かない。

 その間にも白髪の女が正座したまま何かを唱えている。鏡から、月光のような光が八月に向かって走る。

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 ぎゃっ、と八月が叫び、光を防ぐように片腕を上げる。身を引き裂かれるような絶叫が八月の口から洩れ、全身から蒸気が立ち昇っていく。

「止めて!! 八月を苦しめないで!!」

 私は八月を庇う様にその前に立った。東野さんが立ち上がり、私に近づきながら諭すように言った。

「よせ、北嶋姉、それは君の妹じゃない。むしろこうしないと君の妹を救うことは出来ないんだ」

「東野さん……あなたは今まで色々な推論を聞かせてくれましたね。でも、その考察は外れてばかりじゃないですか!!」

 東野さんは悲しそうな顔をして立ち止まった。そうじゃない。そんなことが言いたいんじゃないのに──。

「八月は私が助けます。八月を虐めないで!!」

「北嶋姉、確かに俺の考えは間違いだらけだった……だが、今はそんなことを言い合ってる場合じゃない。潮も西浦も、あの双子巫女まで死んだ。更には巌田家でも……。

 町全体で一体何人死んだ? 君も妹の後を追って見たはずだ。悲鳴はここにまで聞こえてきたから、何が起こっていたか凡その察しはつく」

 今度は私が黙る番だった。東野さんの言う通りだ。このままでは八月は──。

「後ろにいる彼女は巌田家の占い婆、つまり託宣の巫女──君の妹を救えるのはもはや彼女しかいないんだ。頼む、北島姉──」

 

「う”う“っ」

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 今度は巫女が呻き声を上げる。彼女に幾つもの白いものが群がり、それらに食いつかれた巫女服が血に染まってゆく。後から後から現れるそれらは、私の背後から白い軌跡を描いている。

「八…月……?」

 ゆっくりと背後を振り返る。そこには、ほくそ笑む着物姿の少女がいた。その顔から、首から、腕から、フジツボが噴き出しては巫女に飛び掛かっていく。そのフジツボの正体が分かった時、私の喉からひっ、という悲鳴が漏れた。

「胎児……なのか」

 東野さんの呆然とした呟きが漏れる。フジツボのように見えていたそれらは、全て双頭の胎児だったのだ。今まさに、命を絶たれた何百年もの怨みを託宣の巫女にぶつけている。

 そこで東野さんがポケットから水晶を取り出し、八月に突き出す。その一瞬、フラッシュを焚いたような光が辺りを覆い尽くした。

 八月の攻撃は一度なりを潜めたらしい。その隙を突いて彼が体当たりを仕掛けようとするのが見えた。だが、八月が標的を東野さんに変更すると、彼もまた胎児たちの餌食となっていく。必死の抵抗も虚しく、東野さんの体のあちこちから血が滴っていく。

 ─ズサリ

 背後から音が聞こえる。

 ──ズサリ

 すぐ後ろに八月が迫っている。私も殺されるのだろうか……。

 私が死ぬのはいい。でも、その後八月はどうなる? これだけの大惨事だ。きっとマスコミも大騒ぎをする。刑事罰にも問われるだろう。八月は人生の全てを失う。私が守ってあげないと──。

「八月──」

 振り返って止めようとした私を嘲笑うように、八月は私の傍をすり抜けて東野さんと巫女のすぐ前にまで移動した。八月にこれ以上の罪を犯させてはいけない。必死の思いで私は彼女に駆け寄る。

 その肩に手が届く頃には、八月は鬼灯色に輝く刀を巫女に向かって振り上げていた。その時──

「御魂みに 去ましし神は 今ぞ来ませる 魂筥(たまはこ)持ちて 去りくるし御魂 魂返しすなや!!」

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 巫女の声が響くと同時に、鏡から月光のような輝きが溢れ、八月を明るく照らし出した。

「『ア“ア”ア“ア”ア“ア”ア”ァ“ァ”!!!』」

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 八月の体から溢れ出る胎児たちが、次々と鏡に吸い込まれていく。やがて最後には、八月の体がどさりと崩れ落ちていく。すんでのところで私は八月の体を抱き止め、そのまま後ろに下がっていった。

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 それでも少女の怨霊は鏡に取り込まれず、刀を祈祷を続ける巫女に振り下ろそうとした。だが──

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 その刃はもう一つの刃によって打ち止められた。東野さんが、銀のナイフで刀を受け止めたのだ。

「くっ!!」

 その東野さんのナイフに、灼熱の刀が容赦なくめり込んでいくのが見える。そうだ。銀は熱に弱いのだ。それに硬度も金属の中では低い方ではなかったか。

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 心配した通り、高熱に耐え切れなくなったナイフはほどなく焼き切れ、赤く熱を帯びた刃が今度は東野さんの肩に食い込んでいく。それから服が焼き切れ、じゅわっと肉が焼ける音が響くのにそう時間は掛からなかった。

「ぐううっっ!!」

 苦痛に呻きながらも、東野さんは少女を真っ直ぐに見つめた。

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「君達姉妹の怨みは、もう十分に晴らされた筈だ……何百もの胎児が母親と共に死に至り、今夜もまた何十という数の人達が死んだ。

 君の生きていた時代から何百年という月日が経ち、今を生きている人たちが突然命を絶たれたんだ……こんなことを繰り返していたら、今度は君たちが憎悪の対象となるだろう……。

 生死を超えた怨みの連鎖がいつまでも続くことになる……君達の嘆き、悲しみは決して忘れない。風化させない。約束する。だから、もう終わりにしてあげてくれ──」

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 痛みに耐えながら紡がれる東野さんの言葉を、“彼女”がどんな顔で聞いていたのかは分からない。だが、動きが止まっていた。私には、“彼女”が初めて迷いを見せているように見えた。

 全てが膠着する中で、鏡の中から白い人影が現れた。刀を手にした少女と瓜二つの少女が──。

 刀が怨霊の手から落下し、金属音を立てた。そして、再び見たはずのない光景が脳裏に映り込む。

──鬼灯のように赤い液体が、高炉の中で熱気を噴き上げている。それを眺める男達は皆異様に目をぎらぎらさせ、ことの成り行きを見守っていた。

 今その高炉には、一人の少女が投げ込まれようとしていた。泣き叫ぶ少女の両腕を男たちが無理やりに押さえつけ、もう一人が背後から背中を強く押した。

 少女の顔には己の運命に呆然としている様がありありと見て取れた。目を見開いたまま溶けた鉄の中に放り込まれた少女は、最後のあがきのように片手をその中から突き出していた。

 彼女の手が何かを掴み取ろうとするかのようにくわっと開き、しかしすぐに黒い煤と化していく。

 その一切を目にしていたもう一人の少女が気も狂わんばかりに泣き叫んでいる──

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 幻影が消えた後には、二人の着物姿の少女が鏡の前で互いを見つめ合っていた。両手を取り合った二人は光に包まれたまま、鏡の中に吸い込まれていく。

 静寂が戻ったと思ったのも束の間だった。

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 見えない楔から解き放たれたかのように、鬼灯町の家々から、また鬼灯神社からも何百という白い輝きが生まれた。それらは上空にまで高々と飛翔した後、次々に鏡の中に吸い込まれていく。

 その場にいた誰もが──途中目を覚ました八月もまた──目を丸くしてその様子を眺めていた。

 光の中には園さんも雅人さんも、鬼灯の双子巫女も、そして潮や渚ちゃんまでもがいた。潮と渚ちゃんは私たちを向いて微笑んでくれた。私はただ二人に頷き返すことしかできなかった。

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 暫くして辺りに静けさが戻り、力尽きた巫女が両手を地に付いて東野さんに這い寄る。

「東野さん……」

「大丈夫だ。傷はそれほど深くない……それより救急車を……町中大変なことになってるだろうから……」

 息を荒げながらそこまで言うと、東野さんはぐったりとなり両目を閉じた。気を失ったのだ。それを見届けた巫女も、折り重なるようにやはり自失して倒れた。

 私は八月を片手に抱きながら、スマホで救急車を呼んだ。今度は無事繋がった。とにかく人も車もたくさん寄こすようにお願いして通話を切った。精も根も尽き果てた私は意識を失う直前に、再び一つの幻影を見た。

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 この高台で、男が石塔に手を合わせる姿。旅装束のその男は黙祷を捧げた後、一度だけ村を見下ろし、そして立ち去っていった。その後ろ姿が、浜で“妹”と連れ添っていた男のものに重なっていく。

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 ひんやりとした暗闇の中にいた。

 どこかから「かごめかごめ」の歌声が聞こえる。見回してみると、ほど近い場所に朱塗りの鳥居が浮かび上がっていた。何となくそちらに進んでみる。向こう側に誰かの姿が浮かび上がる。

「八月──!!」

 声をかけて彼女に駆け寄るが、不意に子供たちが私の周りで手を繋いだまま歌い始める。子供たちは一様に頭を二つ持っていて、二つの口から同じ声を発している。一人四つの瞳に見つめられながら、私は磁力で囚われているかのように輪を抜け出せないでいる。

「後ろの正面、だあれ?」

 子供らが止まる。背後に冷気が漂う。白い息が吹きかかり、思わずぞくりと肩を竦める。

「──八月?」

 ふっと子供たちが消え、背後を振り返ると八月が背を向けて遠ざかっていく。一つの鳥居を抜けると、もう一つ向こう側に八月はいる。

 再び彼女に駆け寄ると、また一つ向こう側の鳥居に八月が──。

 何度それを繰り返しても追いつけない。

「いい加減にしてよ!! あなたがやっているんでしょう!! 八月を返して!!」

 私の絶叫が虚空の中にこだまする。

 すると目の前の八月が着物姿にとって変わり、一瞬で私の目の前に移動した。

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 すぐ傍まで顔を寄せた“彼女”が私の目をのぞき込む。その瞳は鬼灯のように赤々と燃え盛り、それでいて氷を思わせる冷たい声で囁く。

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「『鬼灯ノ巫女トナリテ、我ラヲ祭ルベシ』」

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 目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。別に怪我などしていないのにと思っていたら、医者から妊娠十二週目ですねと言われて唖然とした。やはり夢などではなかったのだ。現実として受け入れるのは難しかったが、しかし堕胎した場合に何が起こるか──。

 

 再び呪いが復活するのではという恐怖が私を苛んだ。結局八月の支えもあって生むことにしたのだが、その判断が正しいのかどうか、自分にも分からない。

 

 あの後、警察や救急車が到着して町の中は大パニックだったらしい。何せ小さな港町で二百名余りが一夜の内に「長い日本刀のような刃物」で殺害されたのだ。しかも、ご丁寧にその切り口は全て焼きごてを当てたように焼け焦げていた。

 

 ガスバーナーで刃物を熱した後に殺害したのではないかと推測する専門家もいたらしいが、骨まで断ち切るその切れ味には誰も該当する武器を考え付かないらしい。

 また被害者全員が同じ殺され方をしているにも関わらず、巌田本家と分家筋という以外の共通点がないこと、そして外部から移住してきた者にはその被害が及んでいないことなどから、鬼灯町の家系に余程詳しい者の犯行であるとされたが、これも動機のある該当者が見つからない。結局のところ、テロリストか宗教団体による集団殺人ではないかとの説が世間では広まっている。

 

 目撃者の証言は皆共通していて、着物姿の少女が刀で斬り殺したというものだった。だが、目の前で家人が殺害された直後、皆意識混濁に陥りその後のことは全く分からないとしているのも奇妙な点だった。これについては麻酔薬を使ったのではないかとの説も出たが、そのような薬品を使った痕跡は一切検出されなかった。監視カメラを設置している家もあったが、画像が激しく乱れていて使い物にならないのだとか。

 

 マスコミの連日に渡る取材攻勢も激しかった。私たちを偶然人災に見舞われた学生旅行の一団とレポートする報道もあれば、私たちの中に真犯人がいると仄めかす記事も後を絶たなかった。

 

 だが、証拠は何一つない。

 あの刀は参考資料として一度は押収されたが、あれほど殺戮を繰り返したにも関わらずルミノール反応は陰性だったそうだ。また、八月の指紋も検出されなかった。

 

 更には東野さんが細かい部分で口裏を合わせ、都合よく誤魔化してくれた。

 

 曰く、

 

「鬼灯神社で何者かに友人らが殺され、危険を感じて逃れたがその途中で交通事故に遭い西浦渚が死亡。巌田家でも悲鳴が聞こえたので様子を見て踏み込んでみると巌田小夜香が生存していたので助け出し、安全と思われる高台から救助を依頼した。胸の刺し傷は犯人にやられたが、暗くて相手が見えなかった。刀は護身用に神社から持ち出した」

 

 さすがに頭の切れる東野さんには警察も隙を見出せず、彼の主張を崩すことができなかった。

 

 漸く騒動が静まり始めたのは夏季休暇が終わってからのことだ。潮と渚ちゃんの葬儀を終え、私と八月は大学を中退した。その後、両親の反対を押し切り鬼灯町に移住した。東野さんは大学に残ったが、民俗学の自主研究を兼ねて時折私たちの元を訪れるそうだ。

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 秋も深くなる十月末、東野さんが郷土史調査の報告に来た。丁度私の定期健診の日で、東野さんと二人きりで話をすることになっていた。眼下に鬼灯町を見下ろす病院のテラス。二人きりで海に向いたチェアに腰掛け、曲津島を眺める。

 

「この一帯の歴史を色々調べたんだが、やはり五百年も昔となるとそうそう文献など見つからない。運良く見つかってもやはりと言うべきか、呪いについては殆ど記述がなかった。

 

 だが、巌田家の古文書に興味深い一節を見つけた。内容はこうだ。

 

『過日、鬼灯の如き石、天より降れり。海中に没し、後引き揚げれども、双頭の魚、数多現れり。人皆これを恐れ食うことなし。いと怪しきことなり。匠の手に因りて鏡と刀を造りたまヘリ』」

 

「…………」

 

「双子の姉妹を贄としたことは一切記されていなかった。尤も、自分たちの犯した凶行を書き残す馬鹿もいるまいがな。

 

 ここに記されていた『鬼灯の如き石』とはやはり隕石のことだろう。そして『双頭の魚』が生まれた。恐らくは隕石から発した高温や電磁波、あるいは隕石に含まれていた重金属などの影響で突然変異体が生まれたんだろう。最初の不漁はそれが原因だった。

 

 それなのに、この地の漁師達は双子の姉妹に全ての責任を押し付けた。ここからは君が見たという幻を参考にするが、漁民は占い婆の進言に従い二人を捕まえた後、姉を溶鉱炉に突き落として鋼の原料とし、鏡と刀を鍛えた。この溶かした鉄というのは文脈から考えて、海に落下した隕鉄のことだろう。」

 

「溶鉱炉に人を突き落とす……どうしてそんな……」

 

「刀の原料となる玉鋼の代わりになるものが欲しかったのさ。玉鋼は、炭素含有量1~1.5%とされる。隕鉄の炭素含有量は一般にそれほど高くない。だからそれを補充する必要が出てくる。普通なら、藁を燃焼させて作る藁灰というのを用いるんだが……君はあの場所で少女が溶鉱炉に落とされるシーンを見たそうだな」

 

「はい。あそこがその現場なんでしょうか」

 

「恐らくな。小夜香の話によると、あそこは鬼灯町屈指の霊的地場らしい。もしかすると、殺された姉と関係があるのかも知れない。ともあれ、妹はその刀で斬り殺されたんだ」

 

「…………」

 

「斬り殺される間際に、妹は一つの言葉を残した。

 

『うぬらの血筋、絶やさでおくものか』

 

 彼女の言葉に恐れおののいた青年は、切り刻んだ死体を海に放ることが出来なくなった。もしかすると、妹を殺した青年は彼女が身籠っていたことに気が付いていたんじゃないか。

 

 これから幸福になる筈だった時に、お腹の子諸共、姉の血肉で鍛えた刀で殺された。強い怨みが生まれるのも当然だ。結果呪いの降りかかった村では、出産時に妊婦の死亡が相次いだ。

 

 禁を犯して腹を裂き、中を検めるとそこには双頭の胎児……これでは産まれる筈もない。

 

 当時、この地を見捨てて逃げ出す人も大勢いた。しかし網本とその分家は体面もあり、おいそれと去るわけにもいかない。そこで、旅の僧の進言に従い鎮魂の儀を行うことにした。

 

 でもそれは完全には成功しなかった。何故なら、巌田家が肝心の御神鏡、すなわち隕鉄で鋳造した鉄鏡を鬼灯神社から奪い取っていたからだ」

 

「奪い取った? どうして?」

 

「恐らく、鬼灯家と巌田家の力関係が逆転するのを防ぎたかったんだろう。以降、鬼灯家は呪いの本体を、巌田家はそれを封じる切り札を所有することで互いが牽制し合う関係が築かれてしまった」

 

「…………」

 

「結果、姉妹の凄まじい怨念を鎮めるために、定期的に贄を捧げる必要が出てきた。

 

 それだけでなく、呪いで亡くなった妊婦と、生れ出ることのできなかった命……それを鬼灯家……いや、この地の住人達は忌まわしき過去として消し去ろうとした。

 

 そして胎児の遺骸を全てあの島の洞窟に隠した。漁民たちは巫女にそれらを託しただけなのかもしれないがな。ともあれ呪いが発動する度にそんなことを繰り返した挙句、呪いが引き起こした死者の恨みまでもが蓄積していった。そして、それが二次的な呪いを生み出した。

 

 こうして考えてみると、西浦の姉の霊を鎮めたところで、いずれはまた次の犠牲者が必要になっただろう。この負の連鎖をどこかで断ち切らないと、災いはいつまでもこの地に蔓延り続けただろう。

 

 無論そんなことは分かりきっていた筈だが、他に有効な手立てを持たなかった鬼灯家は、園さんや雅人さんの亡霊を呼び戻して小細工をするしかなかった。だが、そんな小細工も既に限界に来ていた……」

 

「双子巫女も、三つ子を封じるなど不可能だと言っていました」

 

「そうだな。これほど負の想念が溜まりに溜まれば、どんな力の強い巫女でも抑えきれないだろう。そして、最も恐れていた事態──即ち呪いの本体が目を覚ました」

 

「切っ掛けは何だったのでしょう」

 

「それなんだがな。君達のご両親に了解を得て、北嶋家の菩提寺に行ってみた」

 

「私たちの? 浄土宗の寺ですよね。でもどうして?」

 

 両親とは暫く連絡を取っていない。一体どう言いくるめたんだろう。

 

「思うに……君たちは鬼灯町と何か因縁があるんじゃないかと思ってね」

 

「因縁?」

 

「北嶋妹の体には鬼灯の痣があるのだろう? 恐らくその痣は鬼灯町周辺出身者の遺伝なんじゃないか。とすると君たちの先祖にこの町の出身者がいたのではないか? そして、その先祖は最初の姉妹と何かしらの縁があったとしたら……」

 

「…………」

 

「考えてもみろ。北嶋妹が憑りつかれて殺戮を繰り返している間、姉の君は一切危害を加えられていない。北嶋妹も最後まで傷一つ負っていない。これは偶然か?」

 

 確かにそれは不思議ではある。自分を止めようとする邪魔者の私を彼女は放置した。それどころか自分の子供を私に託しさえしたのだ。

 

 東野さんが話を続ける。

 

「話を戻そう。俺はそこで君たちの先祖の係累図を見つけた。題は『北嶋家縁起』。何の変哲もない家系図やそれに纏わる話かと思って読んでみたら──ここのことが少しだけ書いてあった。『xxニテ菜月、葉月共ニ没ス。憐レムベシ』。xxとは当時のここの地名。菜月、葉月は恐らく……」

 

「殺された姉妹」

 

「だろうな。奇しくも君たちと同じ名だ。恐らく姉が菜月、妹が葉月だろう。当時の順番ではな。その係累図の最初の人物は、後に北条家に仕え、北嶋を名乗っている」

 

「そうなんですか……つまり、北嶋家はこの鬼灯町がルーツだったということですか?」

 

「あの縁起書が正しければな。北嶋姉、ただ一つ、これだけは忘れないでくれ。君たちがこの地に何かの因果で呼ばれたのだとしても、それは複数重なった要因の一つに過ぎない。

 

 だから君の妹に責任がある訳じゃない。そもそも呪いを生み出したこの地の因習が元凶なんだ。君たちは巻き込まれただけだ。先祖の一人にここの出身者がいたかも知れん。だがそれだけだ」

 

 東野さんは私たちを庇おうとしてくれているのだろう。見方次第で八月は大量殺人犯だ。だが、私はそれを認めない。一生あの夜のことは隠して生きていく。あの夜の記憶を殆ど失っている八月自身にも。もし八月がそれを知ってしまったら、罪の重さに耐えられず自ら命を絶つだろう。それだけは避けなくてはならない。東野さんも暗にそれを認めてくれているのだ。私たちはその意味で共犯関係にある。

「ところで、妹は元気か?」

「はい。毎朝早くから島で祈祷をしています」

 私は曲津島の鬼灯神社に視線を送った。夕焼けに黒い影を浮かび上がらせるそこに、八月がいるはずだ。今日は私の代わりに巌田小夜香こと小夜香さんが付き添ってくれている。

「鬼灯神社はこれからも鬼灯町に支えられていく。ここに誘い込まれた君たちこそが巫女に相応しいのかも知れないな」

 そうだ。八月と私は鬼灯神社の巫女となった。八月に危険が及ぶことを恐れた私は、夢の中で怨霊が残した言葉に従うことにしたのだ。小夜香さんの口利きがあったためか、私たちはすんなりと鬼灯神社の巫女となることが決まった。小夜香さんの占いでも私たちを巫女とすべしとのお告げがあったらしい。彼女によれば、経産婦が巫女になることについては神社の裁量次第であって、この場合は問題にはならないとのことだ。

 その後二人して小夜香さんに師事し、鬼灯神社の神事を受け継いでいる。私たちはこれから、最初の姉妹や贄とされた人々、そして胎児たちの慰霊の為に祈りを捧げる日々を送る。

 曲津島の洞穴は綺麗に掃き清め、神具や祠も取り換えた。あの夜に数多くの魂を取り込んだ鉄鏡を御神体として、刀と“鬼灯”も同じ祭壇に供えている。私個人は島の上部にある本殿に移したかったのだが、人目についてはまずいという小夜香さんの主張であの場所をそのまま使うことになった。

 その小夜香さんもまた、東野さんが大学を卒業した時点で彼と結婚するらしい。しっかりはしていてもやはり、一族の大多数を失った今となっては頼る相手が欲しいのかも知れない。何せ私よりも三つも年下なのだ。年相応の心細さはあるのだろう。

 二月余りの付き合いではあるが、彼女は不思議な女性だ。アルビノということもあって容姿そのものが独特なのだが、その佇まいや仕草、言葉使いが大変に古風だ。巫女になるためだけに生まれてきたような印象すら受ける。それこそ何百年も昔の巫女を見ているような気にすらなる。

 何せスマホやデジカメを知らないなど俗世に疎い部分も多々見られる。病弱であることを理由に、ほぼ箱入り娘状態だったことが原因なのは間違いない。

 東野さんによると、自分が婿入りすると巌田姓が残ることになるのでそれは避けたいとのことだった。いつ呪いが再発するか分からないのだから、巌田の名は気休めでも消しておきたいとのことだ。

「一つ、まだ腑に落ちない点が。殺された菜月の怨念は刀に宿っていた筈ですよね? では菜月が鏡から現れたのはどうしてでしょう?」

「……そうだな。少し強引な解釈だが……。死ぬ間際の菜月の想念が二つに引き裂かれていたとしたら?」

「二つに?」

「そうだ。一つは自分を殺した者たちへの復讐の念、もう一つは妹・葉月の無事を祈る想いといった具合に」

「つまり怨念が刀に、妹への愛情が鏡に宿ったと?」

「状況から考えればそう見えるというだけだ。確証はない。いずれにせよあの御神鏡が今後、呪いを封じるための最重要アイテムとなるのは間違いない」

「……それは、確かにそう思います」

 最後に彼はこう言った。

「俺には、怨霊との約束を守る必要がある。でなければまたあれが化けて出るかも知れんからな。その為には君たちの協力が必要だ。できる限りの支援はする。

 これだけの歴史があっての大事件だ。全てを一人で背負うな。生き残った者たちで支え合う他はないんだ。何かあったらすぐに呼んでくれ」

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 巌田邸──。

 漆喰の塀に四方を囲まれた広大な敷地に、和風の平屋敷。自然を模した庭園の隅からは鹿威しの音が断続的に聞こえてくる。その奥座敷から、人目を憚るように障子越しに明かりが漏れている。

 そこには東野の姿があった。彼は調査内容を文書ソフトに起こす作業に没頭していた。

 小夜香から巌田の抱える秘事のあらましは聞いていたが、全てを北嶋姉妹に告げるつもりはない。却ってややこしくなるだけだ。

 鬼灯神社の双子巫女は生前に言っていた。巌田には双子を生ませる“瓜”があると。双子が生まれやすくする秘薬ではないかと思っていたが、どうやら違う。

 まず、呪いが発動する度に双頭の魚が生まれ、次に双頭の胎児を女達が身籠った。その呪いを解除するために、鬼灯神社の巫女は贄を捧げた。

 だが、儀式はそれだけではなかった。巌田家も密かに、託宣の巫女に鉄鏡を使った秘儀を行わせていたのだ。とすれば、本来呪いのために双頭になる筈だった胎児が正常に発育した結果、双子が生まれたと考えた方が筋が通る。即ち、“瓜”とは鉄鏡の隠語だったのではないか。

 そうして無事生まれた子供たちが撒き餌にされたり、外国に売り飛ばされたのかどうかは定かではない。巌田の古文書にもそのような文言はない。だがそれがどうしたというのだ。仮に真実であれ、俺はそんなことに興味はない。

 既に北嶋姉妹の知るところではあるが、“鬼灯”とは殺された妹の一部、胎児入りの子宮であった。これだけが何故あの祠の中に祭られていたのかは不明であるが、恐らくは村人達の罪悪感がそうさせたと言えなくもない。“鬼灯残して瓜食った”とは、妹の子宮を祭り瓜二つの双子を贄としたという意味だろう。瓜の意味が多重化しているために話がややこしくなっているのだ。

 ともあれ、最初の姉妹の殺害は網元、後の巌田家が指図した。妹に手を下した男は網本の下男である。恨みは当然網元に向かう。それを防ぐために鬼灯神社を建て、巫女を配し、旅の僧に祈祷をさせた。僧はしばらく逗留した後疾走したらしい。その行く先についての記録は見つからない。案外、漁村の暗部を知りすぎた為に闇討ちにされた可能性すらある。

 “鬼灯”の正体を知る分家は、本家の隠してきた陰惨な事実を禁忌の伝承として伝えてきた。後にそれが町名となるのは何とも皮肉な話である。

 一つ意外だったのは、北嶋姉が妊娠していたことだ。父親が誰なのか話してはくれないが、案外南田潮だったのだろうか。だがそれなら秘密にする意味も分からない。

 そこまでまとめた後、メールが一通届いていることに気が付く。送り主を見て、東野は中身を開いた。

「東野真砂様

 巌田小夜香様のゲノムを解析しましたところ、いくつかの遺伝子に突然変異と見られる異常が認められました。

 今後の研究方針につきまして詳しく話し合いたいと存じますので、近日中にお会いできればと思います。

 ではご連絡をお待ちしております。

 ロビン親和製薬研究開発部 四持平 坂男」

 東野の口元に笑みが浮かんだ。

 確かに小夜香はアルビノだ。アルビノの多くは短命とされる。だが今や遺伝子治療の研究が盛んな時代だ。いずれ寿命を延ばす方法が明らかになるだろう。

 そのような人を対象とした遺伝子治療の研究に、先代刀自・巌田ユリとロビン製薬は法すれすれのところで秘密裏に挑んできたのだ。

 その目論見は単にアルビノ体質の巫女の寿命を延ばすことだけではない。その出生率を引き上げ、巌田の存続を確実のものとすることをあの老婆は狙っていた。中々に野心的ではないか。

 そして俺もまた──

 彼女の為なら、どんな悪事に手を染めてもいい。あの美しい少女が自分との婚約を承諾してくれたのは意外だったが、ともあれ初めて本気で惚れた女なのだ。簡単に死なせはしない。

 巌田ユリ亡き今、ロビン製薬は小夜香の婚約者である俺を交渉相手に選んだ。むしろそう仕向けたのだが。巌田ユリとの過去のやり取りをネタに、半ば脅しをかけつつ利害を共有する味方であることを仄めかす。そうしてこの立場を得ることにまんまと成功した。

 ロビン製薬の思惑など大体察しはつく。どうせ予知能力を持つ少女の遺伝子を調べ上げ、あわよくば自分たちも託宣の巫女のような存在を生み出したいと言ったところか。あるいは彼女のクローンでも作り出す気か──。鬼灯神社の双子巫女は、巌田とロビン製薬の関係について情報を掴んでいたのだろう。だが、その双子もこの世にはいない。

 巌田の末裔が生存している以上、怨霊はまだ本懐を遂げてはいない。それはつまり、誰かが呪いを封印し続ける必要があることを意味する。そしてその厄介事は北嶋姉妹が引き受けてくれている。今のところ、すべては順調に進んでいるのだ。

 東野の頭の中では、既に西浦渚や南田潮の事など遠い過去のものとなりつつあった。

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 曲津島での祈祷を終えた巌田小夜香は、北嶋八月と共に船を降りた。そして今、加藤の運転する車に乗り、巌田邸まで送り届けてもらう車中にいる。八月は途中、七月が通院している病院で降りた。

 八月の素質には目を見張るものがある。姉の七月も霊媒体質のようだが、シャーマンとしての能力は八月が格段に上回る。これなら、鬼灯町を数百年苦しめてきた呪いも封印し続けることができるだろう。

 尤もそれは諸刃の剣だ。もしあの夜のように、八月に怨霊が憑依したら……。そうならないために、八月には常に悪霊封じの護符を持たせ、鎮魂の祝詞も真っ先に教え込んだ。それでも何か不吉な予兆が見えたら、その時は私が命に代えてもこの手で──。

 やはりお祖母様の指示に従っておいて良かった。お祖母様が付き添った最後の託宣──。その内容を目にした時、すぐにも襲い掛かるであろう脅威に身の竦むような思いがした。私が口にしたらしい海神様の御言葉と、そして家宝の御神鏡を用いて鬼灯の呪いを鎮めよとの書置きが、事実上の私への遺言となったのだ。

 お祖母様のご遺体を目にした時の衝撃は凄まじかった。血の海と化したあの座敷で、これ以上ないほどの惨たらしさで殺されたお祖母様。

 その時湧き上がって来た感情は単に身内が亡くなった悲しさだけではない。

 今まで自分を屋敷の中に押し込め、同年代の子供とすら遊ばせなかったお祖母様。学校の勉強よりも、父様所蔵の小説よりも、祈祷の為の祝詞と仕儀ばかりを小さな頃から私に刷り込んできたお祖母様。

 私の本心を知りもせず、巌田の巫女はかくあるべしと教条主義に溺れていたお祖母様。すべては私のためだと言いながら、私の希望など最初から聞こうとすらしなかったお祖母様。

 お祖母様は私にとって、永劫に続く絶対的戒律であり、牢獄そのものでもあった。

 そのお祖母様が見るも無残な死に様を晒し、無力に横たわる様は私の中に決して表に出してはならない暗い喜びを齎(もたら)した。

 同時に──

 海神様のお導きだろうか。私の元にこれ以上ない伴侶が現れた。真砂さんは聡いお方だ。あの時私はすぐにすべきことを悟ったし、真砂さんには多くを語らずともそれがすぐに伝わった。

 あの怨霊──鬼灯の呪いの本体。

 祈祷を捧げる間にも、背中越しに凄まじい霊圧を感じた。流石に数百年もの長きにわたってこの地を祟ってきただけのことはある。あの御神鏡と真砂さんがいなければ、私もたちまちのうちに殺されてしまったことだろう。

 幸運にも、御神鏡に宿っていた和魂──真砂さんによれば双子の姉、菜月らしい──が怨霊を鎮めてくれた。後は封印を維持するだけだ。北嶋姉妹がそれをやってくれるのなら、当面は心配いらないだろう。私が本来やるべきなのかも知れないが、時折こうして海を渡るだけでも体力の消耗が激しい。

 私の望みは、真砂さんとの間に子供を残すことだ。そうすれば、私の血は受け継がれていく。怨霊が口にしたという、“血筋を絶やす”という目論見は絶対に成就させてなるものか。

 私と彼なら、きっと優秀な子孫を残せるだろう。いつもお祖母様のご機嫌を窺い媚びへつらって、下と見做した相手には大仰に振る舞う一族の男どもとはまるで違う。真砂さんならお祖母様とも対等にやり合えただろう。

 碌に頼りにならない遠縁の親戚などより、彼に巌田を継いで貰うほうが遥かに未来がある。

 どうせ長くない私の命だ。彼との残された時間を精一杯楽しむことしか私には慰みとなるものがない。その代償として、巌田のことは全て彼に任せることにする。

 一つだけ気にかかるのはあの女──。

 北島七月だ。彼女が宿しているのは誰の子だろうか。それを考えると妙に胸騒ぎがする。

 真砂さんは、南田潮とかいう青年の子かも知れないと言っていたが、果たしてどうだろう。海神様にお伺いを立てるべきだろうか。

 しかしその結果が万一……万一ではあるが、真砂さんとの子だったら──。

 その可能性を考えるたびに、北島七月に対し胸を焼き焦がすような激しい高ぶりを覚える。

 心の底でお祖母様に感じていたもの。その何十倍、何百倍もの熱量を持ったどす黒い感情──。私亡き後、真砂さんは後妻を迎え入れるだろうか。そしてそれは……

 だが、今は手を出す訳にはいかない。私が生きている間は、決して呪いを発動させてはならない。私が死んでも、子孫がその毒牙に掛かってはならない。だから、私はあの姉妹を生かしておく。この海のように、感情の波の底に人知れず怪物を宿したまま──

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 病院の最上階から見渡せば、鬼灯色に染まる街と、海面に蹲る曲津島が一望できる。丁度曲津島の連絡船が港に着き、八月と小夜香さんが小船から降りる姿が見えた。連絡船は加藤さんが引き受けてくれたので安心して任せている。

 この地の住人たちは、はるか何百年もの間あの島の影に怯え続けてきたのだ。だが、これでめでたく終了という訳ではない。

 私の“鬼灯”の中で育まれているのは一体何なのか……。それが生まれてきた時、私は笑顔でこの二人を抱くことができるのだろうか……。この双子は生まれ出た後、一体この世で何を為すのだろう。

 そこまで考えて、一瞬だけ垣間見た過去の幻影を思い出した。葉月と一緒に歩いていた男。菜月が殺された場所で涙を流し、ここを去っていった男──。

 あの時、八月に憑依した葉月が口にした言葉を思い出す。

「『我ガ子ヲ孕メ 産ミ育テヨ』」

 私が宿しているのは、もしかしたらあの男──北嶋家初代との間にできた子なのかも知れない。

 鬼灯町から見ると、あの島は北の方角にある。この地を離れた妹の許婚は後に武門に入り、北嶋を名乗ることになる。ということは、彼は当時の惨劇をその名に留めようとしたのだろうか。

 両肩に、そっと柔らかな手が置かれる。ひんやりとした、白くてしなやかな指先。

「八月?」

「────」

 背後の人物は答えない。ふと気付く。八月の乗った小船はさっき港に着いたばかり。ここまで来るのは無理とまでは言わないが随分と早い。それに足音もしなかったような気がする。

 どこかから「かごめかごめ」を歌う子供らの声が聞こえる。

 後ろにいるのは本当に八月なのだろうか……。

 それとも──

Concrete
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